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 んでいただければお判りの通り、本来、ある場所で発表されるべき原稿でした。諸般の事情からそれが許されなかったため、ここに掲載します。
 それほど面白くはないかも知れませんが、全くつまらないものでもないと思います。
 シカン文化の話は言うまでもないことですが、テレビドキュメンタリーというものはどのようにして作るのか、というのが隠れたテーマになっています。
 ひょっとして、テレビ局に就職希望の学生などには参考になるかも知れません。

 ペルーの北部、シカンの遺跡発掘記です。考古学に興味のある方にも多少は面白いかとも思います。

 4年前に書いた文章なんで、細部に何とも恥ずかしい部分がたくさんあるのですが、まあ、こんなサイトを作ること自体、かなり恥ずかしいことだし、はたまた色々なことがバレバレですが、まあいいや、と敢えて載っけます。かなり長いですからいったんダウンロードされることをお勧めします。

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黄金の都シカンを撮る
   400字詰め原稿用紙換算 403枚(表紙、梗概を除く)

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疋田 智

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 梗概、もしくは「はじめに」

 米国南イリノイ大学考古学教授、島田泉氏が北部ペルーで発見、発掘した驚愕すべき業績「シカン文化」。
 その発掘の一部始終をテレビドキュメンタリーにすべく、私は九五年の後半と九六年の前半、延べ三〇〇日近くを費やし、ペルーと東京で、取材、編集にあたっていた。
 私はTBSテレビの報道番組、中でもドキュメンタリーを作るセクションにいた。
 テレビの制作現場は一人の力で出来ることは少ない。
 一つの番組には、制作(この場合は報道)、技術、美術から編成、営業と少なからぬ人間たちが関わり、少なからぬ金が動き、そしてそこに従事した皆が、なにがしかの充実感と達成感を得たり、得なかったりするものだ。
 だが、多くの場合、その充実感、達成感を最も大きい形で得ることの出来る幸せな立場にいるのが、現地に派遣されるディレクターであろう。
 私は実に幸運なことにその立場に置かれた。
 発掘現場、ペルーでの体験は、実際今から思えば、本当に幸せな充実した日々だった。
 私を派遣した小川外信部長(当時)と西野プロデューサーは、その幸せな体験の見返りとして(でもなかろうが)、私に毎日のペルーでの取材報告をファクシミリで送ることを強いた。
 だが、私はその義務さえ、幸せな日々の一つと思うようになっていった。
 取材報告のファクシミリは日記形式で行きますからね、と宣言し、実際その通りとした。
 日記形式はあくまで日記形式なのだが、それは人の目に触れることを前提とした変なものだ。厳密な日記とは違う。だが、無味乾燥な報告書とも一味違って、読む方にも面白いのではないか、私はそうも思ったりしていた。人の目に触れるものならば、面白いに越したことはない。これはテレビマンとしての本能である。
 東京のスタッフルームに、それを面白がってくれる美女がいたことも私を調子に乗らせた。私は徒然なるペルーの夜に、書き続けた。
 そして、TBSシカンプロジェクトの全てが終わる頃、私は自分で書いたファクシミリの束をを読み返していた。
 ペルーのどこまでも続く大地と、風に揺れるサトウキビと、蜂だらけの大穴と、汗の中で笑うエミリオ氏、エクトル氏、そういったものたちが、色々な匂いや音とともに、頭の中を訪れては消えていった。どことなく苦みのある、それでいて懐かしい充実が、私の心を満たした。
 そして、そこには同時にテレビの放送に表れない何物かがあるような気がしたのだ。私は不遜にもそれらを何らかの形で発表したいと思った。
 以下の多くはそのファクシミリを、大幅に加筆訂正(訂正はあまり無い。ひたすら加筆ばかり)したものである。
 考古学は元々古代のロマンとギャンブル性が入り交じった、実にスリリングな世界だ。そのスリル性を多少なりとも味わって貰うことが出来るのならば幸いと考えている。
 そして、現地でテレビのディレクターが何を考え、どういう具合にテレビ番組が作られているのかを知ってもらえれば嬉しく思う。

疋田 智  



 プロローグ(95/5/20〜95/7/2)

 最初にシカンの何たるかを聞いたのも、その時だったから、同じ会社にいながら、随分と不勉強だったと思う。
 五月末だった。先輩ディレクターの西野氏が、不意に私のデスクにやってきて、こう言った。
「疋田、おぬしペルーに行く気はないか」
 この人はいつもこういうしゃべり方をする。関西出身の顔の長い背の高い手足の長い、つまり何もかもが長く出来ている人だ。その西野氏はその当時、私の担当している番組から、夕方のニュースに移ったばかりだった。
 ぬうっと立って、私の前の視界がせばまる。
 何の取材かと問えば、シカン。
 TBSが何だか力を入れているとのことで、その名前だけは聞いていたが、実のところ、その当時私が知っていたのは、何やら南米で新しい遺跡が発掘されたらしい、ということだけだった。何でも金がザクザク出るらしい。
 あの人気番組、赤城山の金探しも相変わらず行われていたから、弊社は随分と穴掘りが好きなのだなあと思っていた。
「取材期間は二カ月や。どや」
 半分しか開けない目で、そう言う。そういう顔なのだ。長い顔が瞼を引き伸ばしてしまったのだ。
「ただし成功すればの話だがな」
 成功する、しないに関してはさっぱり要領を得ない、つまり何のことやら分からないが、南米に二カ月である。
 私はすぐに飛びついた。
 当たり前なのだ。その時の状況からして。
 当時、私が担当していた番組は、後日「悪名高い」という存在にさせられてしまう「スペースJ」だった。その頃「スクープ第一二弾」まで飛ばしており、視聴率は常に二〇パーセントを越えるという、どうにも報道番組としては実に異常な時期を過ごしていた。
 勿論、オウム真理教事件である。
 週一回の番組ではあるが、スクープを続けていくのは大変なことだった。だが、オウムの事件は底が知れなかった。毎週毎週新たな事実が出てきて、それを取材すると、更に新たな事実が出てきた。
 一度、視聴率をとってしまうと、後には帰れない。
 視聴率には拘らない、だが、視聴率は気になった。それには事情がある。
 私は、この番組にスタート時から関わってきた。
 番組スタッフの士気は高かった。
 我々の間には、番組が始まった頃から、ゴールデンタイムに民放のドキュメンタリー番組を根付かせよう、というスローガンがあった。
 欧米各国ではゴールデンタイムに民間放送局がドキュメンタリー番組をやるのは至極当たり前である。アメリカでは、視聴率上位に、いくつものドキュメンタリー番組が顔を出している。
 それに引き替え、日本ではどうだ。民放各局のゴールデンタイムの放送内容は、良い番組、そうでない番組とは言わないが、それでも、確実に言えるのは、全てがドラマかバラエティショウである。
 これで良いのか、と我々は思っていた。
 商業放送だから、それなりの視聴率をとる必要はあるが、だがそれ以上に、この時間帯に報道番組を根付かせたい、そういう思いがあった。
 もともとTBSが、この時間に報道番組を持ってきた理由は別にあった。
 理想よりも現実、つまり本来は映画番組の枠であったところが、映画を買う値段が年々高くなり、「それよりも低予算でゴールデンの枠が埋まらないか」というところから始まったのだ。ジャーナリズム云々などという話ではなかった。
 だが、そんな「きっかけ」はどうでもよい。
 我々、現場のスタッフには「ゴールデンタイムジャーナリズム」なるものを作っていこうとの心意気があった。マイナーに逃げず、無味乾燥の教科書にならず、しかし伝えるべきところは伝えていく、そういう放送は出来ないかとスタッフは思っていた。
 だが、それでも番組開始当初は絶望的な低視聴率の中に喘いでいた。甘くないのだ。
 質は良い。そう確信していた。幾つかのヒットもあった。新生党の疑惑のスクープもあった。誰も注目しない法廷ものもあった。広域詐欺事件に関しても警察より先にそれを追及していった。
 だが、水曜日の他局のとんねるずのバラエティショウと織田裕二のトレンディドラマに挟まれては、苦戦は必至だった。
 どんなに質の高いものを出しても、視聴者はそもそもチャンネルと合わせてくれない。何度も絶望感を味わった。
 そこに起こったオウム事件である。
 我らの番組は、偶然、ロシア取材を試みた後だった。あくまで「怪しげで危ない、胡散臭い新興宗教」として。
 そして、松本サリン事件にも、我々は多くの時間を割いて取材に当たっていた。そして、我々は「現場周辺に住んでいた会社員、河野氏は犯人ではないのではないか」という結論にたどり着いた唯一のテレビ番組でもあったのだ。
 オウム真理教の匂いを、その松本市周辺に感じとってもいた。
 偶然だったが、それが当たった。そして、その前提があったからこその内偵取材があり、放送予定が立たないままのディレクターたちの奮闘があった。
 それらの蓄積があったから、我々は本当の意味でのスクープを連発できた。
 我々のフットワークはあらゆる局に水をあけていたと思う。勿論TBS社内を見てもそうだ。ゴールデンタイムだから予算もそれなりにあった。出すカメラの数をケチるなどということはしなくてすんだ。これもよかったのだと思う。
 オウム真理教への強制捜査の日、その日から視聴率は二〇パーセントを越えた。
 そして、そもそもの取材の始まりから、他局に先駆けてたから、その後もスクープを快調に飛ばすことが出来た。
 最高視聴率は三二パーセントを記録した。レギュラーの報道番組ではテレビ史上最高だった。
 興奮と疲労の中の取材活動で、私も殆ど家に帰らない生活を続けていた。
 だが、それから二カ月が経ち、三カ月が過ぎようとして、相変わらず熱狂は収まらない。イヴェントは幾らでもあった。岐部が、林が、井上が、そして麻原が逮捕された。後に残った出家信者達もいた。視聴者はまだまだオウムを見たがっていたのだ。
 だが、私はもう飽きていた。
 と言うより、身体が持たなかったのだ。
 あの髭面と、顎野郎と、ガリ勉野郎を見るのももううんざりだった。
 そこに長い顔である。
 長い顔はペルー行き、それも二カ月帰ってこなくてよし、という信じがたい逃げ場所を提示してきた。そこに乗らないわけがないのである。
 他のスペJスタッフ諸氏よ、申し訳ない、と思いながらも、そんなことは何の決断の妨げにもならず、私は七月からのペルー行きを即座に決めた。
 で、シカンである。
 そもそもが何のことだと思っていた。黄金が出る、ペルー、昔の遺跡らしい。それしか知らない。シカンについては私は白痴だった。
 それがバレるとせっかくのペルー行きが無くなる、と私は西野氏の前で、知っている振りを装ったが、無駄だった。私が知っているのは、結局のところ右の三つだけだったから、西野氏は呆れ、それでもなぜか、じゃあ疋田はやめた、ということにはならず、その代わり、これこれのビデオを見ろと指示した。
 さらに、字の小さな本を十冊ばかり積み上げ、「これ読め」となった。
 本の著者は様々だったが、その中の二冊を書いたアメリカの教授がいた。その人の名前を島田泉という。そもそもシカンという名前からして、この教授が名付けたものだった。
 だが、恥ずかしながら、私はここで初めて、島田泉の名を知ったのだった。
 
 新大陸が、欧米の歴史に組み込まれたのが、一四九二年。勿論、コロンブスアメリカ大陸「発見」の年だ。
 周知の通り、当初はアジアへの最短経路を築こうと行われた航海だった。だが、その航海の意味あいは、アメリカが新大陸であるという認識後、すぐに変わっていく。
 その大陸はどうやらアジアではない。とてつもなく大きい新大陸、かつ、そこの住民の話では、奥地には黄金が沢山採れるところがあるという。文字どおりの一攫千金が狙える。
 そして、新大陸はヨーロッパで成功することが出来ず、新天地で一旗揚げて野郎という荒くれどもの集まる場所になっていった。
 その荒くれどもを特に支援し、その黄金を祖国に持ち帰らせようとしたのが、当時の大帝国、スペインとポルトガルだった。
 彼らはより多くの黄金を求めて、メキシコを越え、パナマを越え、アメリカ大陸を南に向かうことになる。
 現在のペルー国周辺にその侵略の手が伸びてきたのが、一六世紀。その時のスペイン人提督が、フランシスコ・ピサロだった。
 ピサロはたったの一四〇人の軍勢を率いて、二万人ともいわれる、当時のインカ帝国の軍隊を打ち破った。勝因は何と言っても、インカ帝国が鉄砲と馬を知らなかったことにある。
 当時の、そして最後のインカ皇帝、アタワルパは、あっという間に囚われの身となった。
 征服のその後、ピサロ率いるスペイン軍が驚いたのは、インカが持つその莫大な黄金の量だった。囚われのアタワルパは、石で作られた牢獄の中で、こう言った。
「余の命を助けるならば、余の家来に命じ、この牢獄をこの手の高さまで黄金で埋めて見せよう」
 そして彼は右手を頭上高く差し出したのだという。
 その黄金は本当に集まった。スペイン人たちはまたもや腰を抜かした。
 元々黄金だけが目当てだったスペイン人たちは、その集まった金銀財宝を殆ど溶かして、単なる金の延べ棒にして、本国に送ってしまった。その黄金の財宝に、いかに精緻な装飾がなされ、いかに聖なる意味があろうとも。
 溶かされた黄金の量は何百トンになるのか。今となってはそれがどれくらいの量で、どのような形態を元々持っていて、どこに流れていったのか、殆ど知る術がない。
 だが、スペイン人たちの執拗な搾取にも負けず、インカの黄金の一部は残った。

 世界各国の色々な博物館に、その一部は展示されている。勿論ペルーの博物館にもある。
 そしてそれらの黄金製品、黄金製の仮面や飾りものなどは皆、十把一絡げに「インカの黄金」だと呼ばれていた。
 インカ帝国以前に関しては、殆ど分かっていなかった。
 アンデスの歴史には文字が存在しなかったから、インカ帝国を征服したスペイン人たちのあやふやな記述しか、それを読み解くものが無かったからだ。
 巨大なインカ帝国はどのようにして築かれたのか、インカ帝国以前に、アンデスにはどんな歴史があったのか。
 インカ以前は、謎だらけだった。
 そしてインカ製とされたその黄金の遺物についても謎が多かった。
 例えば、インカの黄金とされるものの中に多数の「巨大仮面」というものがある。人間の顔の三倍くらいの表面積を持ち、耳飾り、鼻飾りなどがついている。極度に図式化された目と鼻と口を持ち、そしてそれらの大きな目はカッと見開かれ、必ずつり上がった形をしていた(このつり上がった目のことをアーモンドアイという)。
 黄金と銀と銅との合金で出来たこれらの仮面は、何のために作られ、どのように使われていたのか、全く分からなかった。これらもただ、インカ帝国に伝わる黄金の装飾品としてだけ理解されていたのだ。
 黄金製品についての根元的な問い、いったいこれらの黄金はどこから来たのか。
 それは二〇世紀に入っても、もっと時代が下っても、アンデス考古学者たちの一番の研究テーマだった。そして、その研究者の一人が日本人考古学者、一七年前の若き島田泉だったのだ。
 島田泉は日本人である。だが、彼は子供の頃、大学教授だった父親についてアメリカに渡り、一四歳にしてその地に残ることを決意した。
 そして、プリンストン高校、コーネル大学と進む中で考古学にとりつかれていた。
 彼のテーマはペルー北部のアンデス文化だった。
 当然、その地方から発掘されることが多いという黄金の発掘品、中でも「仮面」を多数見ることになる。それは当時、インカ製とされていた。だが、彼は何かが違うと感じていた。
 彼が特に着目したのが、発掘品に刻まれる神の目と「仮面」の目だった。
 遺物に描かれた神の目には二種類がある。
 丸いものと、つり上がったものだ。つり上がったものの方が圧倒的に多い。仮面にいたっては、その全てがつり上がった目を持っている。
 彼は、これらのつり上がった目は実はインカのものではないのではないかと考えていた。
 何故ならば、つり上がった特有の目を持つ土器などは、ペルー北部の海岸地域から集中的に出土していたからだ。
 学生時代のフィールドワークで北部ペルーに訪れてから、彼はそこにこだわり出していた。
 ペルー北部には何があるのか。そこはペルーの歴史の中でどんな意味をもつ地域なのか。
 ペルーには、観光地としても名高い派手な遺跡が幾つかある。
 空中都市として名高いマチュピチュの遺跡や、インカ帝国の首都、クスコなどだ。多くの学者たちはこの地の、それらの遺跡に注目していた。
 ペルー北部は考古学上の、当時、一種のエアポケットの様相を呈していた。
 だが、そこには大きな土の山がいくつもあった。一〇〇〇年前には神殿であった筈の、日干し煉瓦(アドベ)の塊が崩壊した姿だ。
 その土の山が集まる村があった。
 その村の名をバタングランデ村という。
 彼はバタングランデ村に何度も足を運んだ。そして、そこに、まだ発見されていない国があり、文化があると確信するようになっていった。
 彼はその文化に「シカン」=月の神殿と名付けた。
 それからの彼の人生はこのシカン一色となっていく。ペルーに訪れては、データを集めた。
 「金を盗みに来た悪い日本人」と地元の新聞に誤解されたこともあった。白人ではない学者ということから差別されたりもしたそうだ。現地のペルー人たちに言われの無い中傷、非難も受ける。
 だが彼は負けなかった。そして時が経つうちに、その熱意は次第に住民たちに信頼されていく。
 彼は自らが名付けた「シカン」こそ、インカの黄金のルーツではないかと、考えていた。
 仮説は次第に形を持ってくる。
 それはこうだ。

 この地には、インカ帝国以前に、ある宗教国家(島田がシカンと名付けたもの)が存在した。それは恐らく一〇〇〇年前前後に何らかの(洪水ではないかと島田は考える)理由で滅びた。
 そしてインカ帝国に征服された後、インカがその莫大な黄金を持ち帰った。それが現在、インカの黄金として残っているものだ。
 黄金製品に描かれた、つり上がった目を持つ人物像はシカンの神だ。つり上がった目の巨大な仮面は、シカンの王、もしくはそれに準ずる人物が着けていたものであろう。
 そして、インカに持って行かれなかった黄金や様々な遺物もこの地にはまだ残っているに違いない。それは墓に副葬品として埋葬されている。

 この地に多数いる盗掘者(ワケーロ)も、同じものを多数掘り返していた。
 バタングランデ地域の学術的発掘は未だになされたことがない。それを行うことが、シカンの、そしてインカの黄金の謎を解くことにつながる。
 発掘には金がかかる。当時、彼がいたハーバード大学の研究費だけでは無理だった。
 島田は、スポンサーを探した。困難だったが、それは何とか見つかった。それがTBSだったというわけだ。
 島田は一九九一年、風化した神殿の一つ「ロロ神殿」を掘った。
 それは彼自身の学者生命を賭けた大発掘だった。
 そして島田はその賭けに勝った。
 島田がここだと見込んだ所に、墓は実在した。それはまるで黄金の蔵だった。そして墓の主はやはり黄金製の巨大な仮面を被っていたのだ。
 目は確かにつり上がっている。シカンの神の顔そのものだった。
 シカン帝国は一〇〇〇年前のこの地にやはり実在したのだ。 

 西野氏に手渡された文献を読むにつけ、私は少々驚いていた。
 これはひょっとして、いやひょっとしなくても大変なことではないのか。
 単身米国に渡った、日本人学者が、今、世界の歴史を塗り替えようとしているのだ。文字どおりに歴史の教科書に新たな数ページを刻もうとしているのである。
 このような歴史が変わる現場に私は立ち会おうとしているのだ。
 何だか感動的な話であるな。さて、俺はどのようにベストを尽くそうかと考えて、「待てよ」と思った。
 本によると発掘は既に終わっている。莫大な量の黄金製品も、既に修復を終え、あろうことか、日本で展覧会までやっているというではないか。
 俺は一体ペルーに何を撮りに行くのだ。私の頭は混乱した。
 本には続きがあった。

 さて、島田が掘ったその墓は実に奇妙な墓だった。
 この墓の主人は、あぐらを掻いた形でひっくり返され、逆さまに埋葬されていた。そして、更に奇妙なのが、首だけは切り落とされているのだ。その首が、あの巨大なシカンの仮面を被り、胸の前に正常な向きに置かれていた。
 その顔はまっすぐに西を向いている。
 また墓の主人のさらに下に埋められた二メートルはあろうという巨大な手袋は、黄金のコップを西向きにちょうど捧げもつように握りしめていた。
 逆さまの格好で、全てが西へ。
 いったいこの墓の西には何があるのか。島田はこう考えた。
 島田が掘った墓は、ロロ神殿のプラットホームと呼ばれる部分の東側にある墓だった。
 それを挟んで、逆。つまり西に墓があり、そこに全てを読み解くカギがあるのではないか。
 西の墓の別の主人が、東の墓に対応しているのではないか。逆さの意味、シカン文化の意味がその西の墓の発掘によって分かるのではないか。

 その発掘は七月に始まる。
 この七月だ。
 シカン第二の発掘、それを私は撮りに行くのだ。
 テレビディレクターにとって、それは非常に意味のあることだった。何故ならば、東の墓の発掘は、あくまで黄金が出土し、シカンの仮面が現れてからの取材だったから、映像は既に発掘された穴から、発掘品が出てくるところに偏っている。弊社は島田教授にそこまで賭けることが出来なかったのだ。
 だが、今回は違う。墓を掘る、最初から最後まで、徹頭徹尾、その発掘を見つめ続けることが出来るのだ。
 私は震えた。

 ペルー行きの準備は、孤独な作業だった。何しろプロジェクトの人員が少ない。おまけにその少ない人数の一人一人がそれぞれ別個の仕事を抱えているときている。
 外信部の小川邦夫部長が制作プロデューサーである。制作プロデューサーとは、つまり番組の一番偉い人というわけで、例えば番組のエンドテロップの一番最後で「制作 だれがし」と出る人だ。予算、人事などを管理する。
 小川部長はかつて「小川キャスター」と言った。「ニュースデスク」「報道特集」などのキャスターを務めた、一般にも丸い顔の知られた人だ。今回のシカンについても、九〇年の発掘開始当初から関わっている。当時はキャスターとして。だから、今回に関しても、彼は制Pとしてだけではなく、出演者としても関わってくる。
 彼はこのシカンプロジェクトに関わりすぎて、やがて外信部から不評を買うようになってしまった。外信部長はTBSの外国ニュースの全てを統括する役職だから、南米の話ばかりやっていては困るというわけだ。それでも彼はニコニコといそいそとシカンの仕事ばかりやっていた。彼はシカンが好きなのだ。
 二人目が例の西野哲史氏である。
 彼はプロデューサー。つまり番組のコンセプトを決定し、出演者を決め、その他諸々の番組放送に関しての面倒くさいことどもをこなしていく役目だ。九一年からこちら、彼はシカンプロジェクトのディレクターだったのだが、今回はその役を降りた。これが彼の初のプロデュース番組なのだ。
 この人は実に報道人的な真面目な人である。
 どちらかというと、私は番組をより面白い方へ面白い方へ持っていきたい人間なのだが、彼はそれを「いや、それは正確には事実と食い違う」と待ったをかける。私もやはり後から考えると、西野氏の方が正しい、と思うことが多い。ドキュメンタリストなのである。彼は。
 で、ディレクターが私。ディレクターというのはそのままの意味で言うと現場監督のことで、つまりはテレビ記者である。現地に行ってカメラマンにあれ撮って、これ撮って、と言い、インタビューをし、原稿を書き、VTRの編集をする人間のことで、通常、この手の番組には二人、三人はいるのだが、今回の場合、私一人。
 ADは無し。放送の目途が立ったら雇おう、ということだった。
 番組デスクの名前を穴水園子女史という。まず特記すべきは彼女が大美人であることだ。この時点では年も謎、出自も謎、何もかもが謎の美女である。言葉遣いも柔らかく、実に「理想的な美女 ン土肥カメラマン(後に登場)」である。
 番組デスクとは伝票処理から飛行機の手配から、そういったことをこなしていく、つまり番組付きの秘書である。私及びカメラクルーの飛行機の手配、ヴィザ取得、その手のことは何もかもやってもらってしまった。優秀な番組デスクがいると、ディレクターは気楽なものなのだ。
 TBSの中にいるのはこの四人だ。
 だが、これにプラスして重要な人物が二人。
 一人は現地コーディネーターの義井豊氏である。
 義井氏はペルー在住一四年の日本人カメラマンで、首都リマに住んでいる。
 フリーのカメラマンなのだが、共同通信のペルー駐在記者も兼ねている。口髭がダンディな、穴水女史の一ファンである。さらにスペイン語の通訳も兼ねる。
 一番最後にはテレビレポーターすら兼ねてしまった。私が画策したのだ。
 いずれにせよ、彼がいなければ私のペルー取材はにっちもさっちも行かなかった。こうやって今、私がシカンの取材記を書けるのも、全ては彼のおかげなのである。
 そして更に、御大である。南イリノイ大学の島田泉教授だ。
 シカンの名付け親で一七年前にシカンの全てを始めた人。先にある通りである。私はこの教授に六月の下旬に初めて会った。TBSの一一階の喫茶室だった。シカン展覧会の打ち合わせのためにアメリカから来ていたのだ。
 とんでもなく分厚い眼鏡をかけた無口な人だった。
 一見の客には見向きもしないという感じだ。付き合い難そう、というのが私の第一印象だった。
 彼の実際の、その本質はこの時点では明らかではないが、私は、この顎髭の教授の無口さに一抹の不安を抱きながら、ペルーに行くことになった。以降、最重要の登場人物となる。当然である。
 教授はTBSでの打ち合わせが終わると、すぐにアメリカに帰国した。恐らくはこの時点では私の顔すら覚えていなかっただろう。
 取材の前にこれでは少々困るのだが、帰ってしまったものは仕方なく、ペルーでリターンマッチということだ、と私は兜の緒を締めた。
 勿論、これ以外にもカメラマンや通訳さんなど、重要なる登場人物は多数出てくるが、それは本記の中で追々紹介していくことになる。

 さて、ペルー行きの日取りは刻々と迫るのだが、私の方はといえば、相変わらずオウム関連の仕事が多く、面倒な手続きは殆ど穴水女史に任せきりになってしまった。
 小川部長や西野氏にに「大丈夫なのか、あれはもうやったのか、もうあと○○日しかないのだぞ」などと言われながら、穴水女史に全面的なサポートを受けつつ、細かなことをノロノロと(そう見えたことだろう)片づけていった。
 こういうときに手続きが面倒で、かつうるさく言われるものの一つに機材関連のことがある。
 この手の長期滞在の撮影機材は全部で二〇〇キロを越す。さらに今回は「地中レーダー」という奇妙なものを持っていくので三〇〇キロになんなんとする。
 これは勿論、手荷物の範囲を越えているから、別個の料金を取られることになる。これが馬鹿にならないのだ。一キロ単位で料金が取られ、場合によっては人間二、三人分と同じになったりする。
 今回のシカン取材は、放送の目途がまだ立っていないこともあって、予算が極端に制限されているから、そこで、航空会社と交渉、ということになるのだ。
 クイズ番組などで「賞品はハワイ三泊四日の旅です」などというときに、飛行機とそのロゴマークが大写しになることがよくあるが、あの種の交渉だ。
 現在では、航空各社は「あんなものは大してコマーシャルにならん」と見切ってしまっていて、そんなことで、只で載せてあげたり出来ないよ、ということになっているが、じゃあ、せめて荷物代だけでもチョビッとでいいから負けてよ、ということを交渉するのだ。相手はブラジルのバリグ航空だった。
 その交渉は成功した。
「前回はそれでOKだったじゃないですか、もう」
 という穴水女史の一言が効いたのである。
 機材についてはさらに面倒なことがある。
 テレビの撮影機材は高価なものが多いから、特に発展途上国に行く際には、その登録が必要になってくる。
 もしも現地で売られたりしたら、外貨が出ていって、貿易赤字が更に拡大してしまう。こんなものには本来、高率の税金を取らねばならないというのに、という相手国側の危惧だ。
 だから、持ち込んだ機材は、寸分違わず日本に持ち帰ること、という約束をさせられるのだ。そして、カメラからマイクからバッテリーチャージャーから、全てメーカー名とシリアルナンバーを登録させられ、それを在日の大使館に申告して書類を作成してもらい、現地のあらゆるところでチェックさせられる。
 これをカルネという。
 これは結構厳しくて、現地で機材が壊れるようなことがあったとしても、その残骸を税関に提出しなくてはならない。税関を出るときと入るときで、重さが変わったりすると、モノによっては「中身だけ取り出して売りつけたのではないか」などと思われたりして、長々と動作チェックされたりもする。
 また、そういうことで難癖をつけて、賄賂をとろうとするような職員もいるのだ。国によっては。
 私も一度、某国でやられた経験がある。

 とにかく雑多な準備があって、カメラマンとサウンドマン、現地でのスタッフも決まって、かつスペースJの放送も相変わらずで、結局何だかんだと、穴水女史の指示するとおりに私は動き、その当日は、やってきた。
 穴水女史はにっこり笑って、お守りよと、私に折り鶴をくれた。
 私は感動したが、前回もそれ以外の時も、そうしているのだそうだ。私は後で聞いて、少なからずがっかりした。
 西野氏と穴水女史が、地下の駐車場で我々を見送った。

*これ以降が現地から東京へ送られたファクシミリである。
 最初に述べたように、日記形式の、かつ他人の目に触れることを前提にした、よく分からないものだ。
 それに、私は日本に帰ってきてから、大幅に加筆してしまったので、さらに訳が分からなくなった。しかしながら現在でも、私にはまだまだ書き込みたいことが沢山ある。
 それだけ魅力的だったのだ。ペルーは。発掘は。



第一章 バタングランデ村

 95/7/3

 早朝のロスアンジェルス国際空港。ただし、早朝というのは日本時間であって、こちらでは一三時。およそ二時間のトランジットである。ロスの乗り継ぎは、殺風景な部屋に隔離されるので気が詰まる。おまけにこの部屋の照明が暗いのだ。
 ちっぽけなファストフードのカウンターのようなものがある以外は何もない。
 ここに二時間。膝の上にパワーブック(これを書いているノート型パソコン)などを広げているのも、何だか馬鹿馬鹿しく、なあに考えてるんだ、格好つけちゃって、などと思われないかしらなどと思ってしまって疲れる。
 かといって他に何もすることがない。椅子の色は黒。鉄のパイプとビニール製の「殺風景な椅子とは私のことです」と英語で喋りかけているような代物だ。
 時計の針を見る回数が増える。時の経つのが遅い。
 本当にお昼なのだろうか。窓もないし、雰囲気がひたすら暗い。
 タバコなど喫おうとすれば、なおさらだ。暗く細長い部屋のはじっこの喫煙室に出かけていき、暗そうな日本人と韓国人と「やーはは、私たち、まあだ煙草なんか喫ってるアジアの黄色い野蛮人でえす」という気分にならなくてはならない。
 お喋り好きな地中レーダー技師、渡辺氏も黙って時計を見ている。カメラマンの土肥氏もVE(ビデオエンジニア、主に音声を担当する)の内田氏もひたすら黙っている。

 で、今、リマのシェラトンホテルについた。こちらの時間の深夜一時に着いたので街には誰もいない。思ったより普通だ。
 低層住宅やこれ又低層の工場が立ち並ぶ中に太い道路が走っている。街はフォルクスワーゲンのビートルばかりが目に付く。当然のことながら深夜だから道を歩いている人々は少ない。時折歩いている人々の中になぜか長い棍棒を持ち歩く三人くらいの若い男たちがいた。チンピラたちだそうだ。最近のペルーはゲリラたちのテロより、こうしたチンピラ兄ちゃんの起こす事件のほうが多いという。
 街にはオレンジ色の街灯がつく。オレンジ色の街灯は人々の、または建物の影を際だたせる。空港に降りたときからこうだ。影が神秘的にさえ見える。こういう光景は好きだ。

 リマの国際空港には義井氏と、エミリオ氏と、日本電波ニュース社リマ支局の下野氏が待っていた。最初から面識があるのは義井氏だけである。この三人はこれから先、何かと関わってくるはずだ。うまくやっていければと思う。
 エミリオ氏にはこれからの道中の通訳を務めて貰うことになる。
 彼はペルー育ちの日系二世で、日本人をちょっと色黒にしたという風貌を持つニコニコおじさんである。フルネームで、エミリオ木原さんというそうだ。NHKの磯村元キャスターによく似ている。だが、磯村氏のようなインテリ然としたところは微塵もなく、とにかくよく喋る五〇歳だ。
 話には聞いていたのだが、喋る内容は冗談ばかりである。フランス小話みたいな話ばかりをして、自分で、なーははと笑う。
 我が東京シカンスタッフたちには、少々生真面目なところがあって、東京を出る前、小川部長や義井氏は「エミリオは下らない冗談ばかり言う、あの癖さえなければ良いんだがなあ」などと言っていたが、なんの、私はこういう人物は好きだ。面白いではないか。事実、その面白さを日本の旅行各社に買われ、彼は旅行ガイドとしても引っ張りだこなのだそうだ。

*無論、日本の海千山千の旅行社が彼を重宝する理由は、それだけではなかった。彼は旅行コーディネーターとしても一流で、観光客を喜ばせる見せ場のツボ、その紹介の仕方、そして何が面白いかをチョイスする技量を持ち合わせている。
 これは偶然だが、シカンの放送が全て終わった後、私の母の友人がペルーに行き「ガイドの木原さん(エミリオ氏のこと)が最高だったのよ」との感想をもらしていた。

 エミリオ氏は下らない冗談を連発しつつ、てきぱきと我々の機材をマイクロバスに積み込み、やはり笑いながら空港を去って行った。
 彼と運転手ロンメル氏はこれからマイクロバスで三〇時間かけて、ペルー北部の町、チクラヨ市に向かうのだ。我々とはそこで落ち合う。このチクラヨ市が、これから我々の過ごす町になるのだ。
 どんなところだろうか。だが、我々にとっては、まず目の前のリマ市がどんなところだろうか、である。
 シェラトンホテルは恐らくこの街一番の高級なものの一つなのであろう。実際に五つ星が入り口に掲げてあった。部屋も広い。ただ、東南アジアのようにばりばりに高級というわけでもない。何だかどこかに薄汚い風情がつきまとっている。後で聞くと、街の中心地が移ってしまって、かつては高級だったものが、落ちぶれてしまったということらしい。
 ホテル全体の真ん中に吹き抜けがあって、まるで東京のマンションのようだ。テレビをつけるとほとんどが英語である。ただ、この国の住民はほとんど英語を理解しない。何のための放送。恐らくこの手のホテル類だけを対象としたケーブルテレビジョンなのであろう。
 スタッフは私のほかにカメラマンの土肥氏、VE、サウンドマンの内田氏、そして、地中レーダーの渡辺氏だ。渡辺氏は非常によくしゃべる。エミリオ氏と良い勝負だ。

95/7/4

 で、翌朝である。八時に荷物の積み込みが終わって、朝食を食べて今。暇があれば、いつでも書いていくつもりである。
 食事は思ったよりも高い。ホテルの中だからだろう。
 こちらの通貨は「ソル」。一ドルが二・一ソレス(複数形)だ。だから、円に換算すると、五〇円がおよそ一ソルということになる。
 朝食が一四〇ソレスだったから一四〇掛ける五〇でおよそ七〇〇〇円。四人分である。一人当たり約一五〇〇円、東京並だ。高い。

 帰ってくると、午前一時になっていた。
 今日のスケジュールは、午前中に外務省。
 ペルー国内取材の記者証を貰った。外務省は小さかった。外務大臣公邸と言われたとしても、あまりの狭さにびっくりしたことだろう。恐らくは公邸はもう少し広い。
 案内してくれる義井氏には実にたくさんの知り合いがいる。街を歩いていると様々な人が声をかけてくる。勿論外務省の人間も顔見知りだ。リマが狭いのか、それとも義井氏の顔が広いのか。
 ペルーには七〇パーセントの貧困層がいるという。恐らく日本人とのつきあいがあるのはそれ以外の三〇パーセントとなるのだろう。そしてその中でもさらに一部だ。
 午後には二つの博物館を廻った。一つ目は天野博物館。日本人実業家のコレクションだそうだ。どおりでボランティア(この博物館の館員は殆どがボランティアなのだ)による説明が、やたらにペルーと日本を関連づけたがっているようなものとなっていた。説明は皆「天野説」として聞くべきだそうだ。義井氏の話によると。
 義井氏はかつてここの学芸員をやっていたこともあるという。
 考えてみると、この義井氏とは一体、何者なのだ。
 彼はTBS取材班の一員でもあると同時に、発掘団の一員でもある。日本語とスペイン語を解す。ペルー在住一四年。島田教授とは非常に親しい。カメラマンで、日本に紹介されるアンデスの発掘品の殆どの写真を手がけている。共同通信のペルー駐在員も兼ねる。そして元日大全共闘だそうだ。
 そしてペルーの遺跡と遺物に関してめったやたらに詳しい。
 とにかく、今のところ我々は全て、今日のスケジュールにしても、泊まるホテルの予約にしても、下駄をこの髭のおじさんに預けている。
 二つ目は国立の黄金博物館。多くの偽物が混じっているとしても(義井氏によると混じっているのだそうだ)、その量には圧倒される。
 そして、その中には例のアーモンドアイ、つまりシカンの遺跡の特徴である、つり上がった目を持つものが多数含まれていた。
 その一片が今回の発掘、中でもこの一ヶ月の間に出れば。
 すべてはが変わる。何より予算が出る。

*一番最初に西野プロデューサーが「成功するなら」と言ったのはこのことである。我々テレビ局にとって、今回の発掘で重要なことの一つに「黄金が出るか出ないか」があった。
 テレビ局にとっては「幻の遺跡から、またも黄金がザクザク発見された」というキャッチフレーズが非常に重要だったのだ。それはスポンサーがつくかどうかに重く影響し、すなわち番組が成立するかに直結し、すなわち、予算が出る、疋田が引き続き取材を続行する、という結果を生むのだ。
 私はこの回のペルー取材に際し、一カ月の猶予を与えられていた。その一カ月で何もなければ、しようがない、疋田は帰ってきて、それでおしまいだ、と脅されていたのだ。主に小川部長から。

 その後、島田教授との食事会となった。松栄という名の高級和食、寿司屋である。旨かった。雲丹をあんなに大量にいっぺんに食べたのは初めての経験だった。しかもそれははっきりと形を残し、甘い香りが濃厚な幸せなものだった。最後のお茶漬けの梅干し(ただ単に辛くて酸っぱかった)を除けば、その寿司の味は日本で食べるものに何の遜色もない。流石は海産物の国なのだ。 
 島田教授も思いのほかフレンドリーだった。東京で最初に会ったときは、何とも無口でしかめ面で一言もしゃべらず、こんな偏屈教授とこの先いったいどうなることやらと思ったものだったが、杞憂に終わりそうだ。あくまで今の段階では。
 しかし、それより地中レーダーの渡辺氏の方が、何かと文句の多いオヤジで、結構たまらない存在になるかも知れない。こちらの方が杞憂に終わればいいのだが。
 で、結局一一時半に帰ってきた。疲れた。
 このホテルはシェラトンホテルアンドカジノと言うのだが、というわけで当然ながらカジノがある。で、覗いてみた。四〇ドルをチップに替えてスロットマシンからやってみたのだが、駄目で、ルーレットに代えた。
 マカオでの苦い思い出があるもので、慎重に慎重に賭けた。マカオは実にレートが高くて、確か最低の掛け金が一〇〇香港ドルではなかったかと記憶している。実に当時最低三〇〇〇円ということだ。三回半瞬きをしている間にスッて、もう二度とやるかと思った。こちらは違う。最低が五セント。
 なんと言うことだ。スロットマシンでスッてもスッて四〇ドルがなかなかなくならない。スロットマシンは正直言って飽きた。で、ルーレットだったのだ。
 ルーレット台に一人で座って五ドルずつ賭け続けた。なぜか勝った。八〇ドルになったところで、やめてしまった。もっと儲けることが出来るような気もしたが、いいのだ。こういった遊びの賭けに勝ったのは初めてだ。驚いた。わずか四〇〇〇円の勝利だが、万歳だ。トラトラトラ我奇襲に成功せり。
 良い一日だったといえる。
 明日はチクラヨ入りである。
  
 95/7/5

 別にこれといってのノルマはなかったのであるが、何だか疲れた。時差が今日一日に集中してきたのだろう。
 リマ国際空港で二時間以上待たされた。
 ペルー北部の唯一とも言える都市、チクラヨに飛行機で行くのだ。空港で会ったエミリオ氏は荷物満載のマイクロバスで八〇〇キロ走り、チクラヨの空港で待っている。
 バタングランデ村まで六五キロ。この街がこれから我々の滞在するところとなる。人口二〇万人を少々越えるというくらいだそうだ。かの有名な「地球の歩き方」によると「観光すべき所は何もない」らしい。むしろそれくらいの方が良いとも言える。リアルな現地の生活があるというものだ。
 ただ「地球の歩き方」にもシカンと島田教授の話は囲みのコラムで出ていた。
 それにしても、ペルーの国内路線は全く時間が読めない。
 我々が乗ろうとしている飛行機はクスコからリマ経由でチクラヨに向かうものなのだが、現在、クスコから出るのが「何らかの理由」で遅れているのだそうだ。
 「何らかの理由」とは色々だ。
 パイロットが予定の時間にまだ家にいた、乗る筈の要人が、酔っ払っていて遅刻した、などだ。
 おかげで、島田教授と顔を突き合わせたまま、空港のカフェで二時間を過ごすことになった。
 正直言って少々気詰まりだった。
 教授はスペイン語と英語では饒舌だが、日本語はあまり喋りたがらない。昨日の松栄での彼とは別人だ。
 日本語が下手というわけではないのだ。京都弁の混じった古風な日本語を話す。
 だが、つまりは無口なのであろう。スペイン語で饒舌なのが、むしろ、そちらの方が変に思える。会話のネタを探すのに苦労する。
 結局、発掘の話をしようとするのだが、話しかけても内容によっては無視されることもある。会話の試験を受けているようだ。これから先が思いやられる。
 ところが、こういうときに活躍するのが、地中レーダー技師の渡辺氏だ。この喧しいおじさんは、デリカシーというものをほぼ持っていないに等しいから、何があってもめげない。釈迦に説法などと言う言葉も彼には関係ないから、本当に教授にシカンの発掘についての説法をしたりする。私はその強心臓に驚くが、今日のところはそれが功を奏した。渡辺氏がいなかったら、この場はどう持ちこたえればよかったか分からない。
 渡辺氏はいつもニカニカしている。立川談志のような眉毛を持っている。基本的には明るい好人物である。
 義井氏は何だか携帯電話をかけてばかりいた。
 ゲートをくぐり、待合室にはいると、据え付けられたテレビモニタで「シカン発掘」をやっていた。
 ペルー人テレビスタッフが作った観光プロモーションビデオだ。
 なかなか出来がよい。
 画面の中で島田教授が喋っている。モニタは高いところに据え付けてあって、そのモニタの下に本物の教授が座っている。
 やはりここでは有名なのだ。恐らくは英雄と言ってもよいのだと思う。
 まだこの時点では勝手な印象に過ぎないが、ペルーという国は考古学の占める地位がとてつもなく高い。日本ではマイナーな学問というイメージが強いが、ここでは最もメジャーなそれだ。どんな人々も自分の国の過去の歴史について、そして、あらゆるところで発掘される様々な文化の痕跡について、誇りを持って語る。
 これから乗ろうとするアエロペルー(航空会社)のマークもシカンの仮面をモチーフにしたものだ(ただしロゴマークの決定時はインカ帝国遺物としてのマークだった。シカンの謎を解いたのは、その後の島田教授なのだ)。勿論、目が吊り上がっている。
 それ以外にもツミと呼ばれる儀式様のナイフをモチーフにした図案がよく用いられる。ツミの複製はペルーの定番で、土産物屋には必ずある。そのツミナイフの真ん中にも、吊り上がった目を持つシカンの神がいる。
 空港中にポスターがこれでもかと貼ってある。あるものはマチュピチュであるし、クスコであるし、チャンチャン遺跡であるし、シパン遺跡である。
 つまりはこの国の最も重要な産業である観光を促進する学問が考古学なのだ。考古学は一種、国策でもあるのだろう。
 待合い室でもさんざん待たされ、アエロペルー社からサンドイッチが支給された末(これがぱさぱさした実に不味い代物だった)、ようやく飛行機は出た。
 この国で飛行機に乗れるのはお金持ちかエリートばかりだ。
 真っ暗になってチクラヨ入りした。
 エミリオ氏が待っていた。我々は少なからずほっとした。ゲリラにも会わず、無事に着いたのだ。実はこの種の危惧は少々あった。リマとチクラヨの間に、かつて(と言ってもわずか五年ほど前)センデロ・ルミノソの拠点の町があったのだ。センデロ・ルミノソ、「輝ける道」とは、毛沢東主義の左翼ゲリラである。
 ジャイカの日本人を射殺したのも、この連中だ。現在、活動はかなりおさまっている。フジモリ大統領の選挙公約の第一番手は、センデロの撲滅だった。それはそれなりの成果をおさめたのだ。
 ホテルは適当である。ガルサホテルという。ガルサとは白鷺という意味だそうだ。気持ちがいい。高級すぎるのも困る。あの気持ちの良さとこの気持ちの良さは少々違っている。二二歳、二三歳と、地球の歩き方した頃泊まった、タイのインド風ホテルを思い出す。

 95/7/6

 驚いた。バタングランデに至る道の風景は正にブラウン管の中の世界だ。幼い頃に図鑑などでよく見たいわゆるメキシコ的風景が目の前に広がっている。
 私の中のメキシコ的風景とは、砂漠の中に、大きなサボテンが沢山突っ立っていて、そこに通りかかった馬に乗ったソンブレロの貫頭衣の髭男がマラカスを持って「アミーゴ!」と叫ぶ、とこのようなものだ。このようなイメージをステロタイプという。日本人が皆ちょんまげを結って、刀を差して、カメラをぶら下げて、富士山をバックにお辞儀をしているという類のものだ。
 だが、そのステロタイプのメキシコ的風景がそこにあった。さすがにマラカス男はいなかったが。
 このような風景が現実に存在するのだなあ。おまけにメキシコでなくペルーなのに。
 例のガルサホテルのあるチクラヨ市から、クルマで二時間走るとバタングランデ村に出る。間にフェリニャフェ市と、ピティポ、サランダなどの村がある。フェリニャフェ市とピティポ村の間が、そのアミーゴ風景なのだ。それが延々と続く。
 フェリニャフェ市はそれなりの町で、一応電気も通っている。チクラヨの衛星都市(都市は変だが、他の言葉がない)、またはベッドタウンという趣だ。チクラヨからもアスファルトの道を通って行ける。
 だが、この町を通り過ぎると、目の前に広がるのは、ただ、砂漠だ。サボテンだ。アミーゴだ。
 ペルー北部は基本的に乾燥した地域で、熱帯疎林、つまりサバンナ気候にあたるが、地域によって、小さな、または中くらいの砂漠が点在する。その中の一つなのだ。
 砂漠に降りてみた。
 島田教授にとっても四年ぶりにバタングランデ村に訪れる日だ。その彼のジープの走りを撮るべく、カメラのスタンバイをする。この種のカットが後で重宝することになる。
 ある番組の原稿を書くときに、出だしがすっきりしていると、その後が書きやすい。「教授が四年ぶりにバタングランデ村にやって来た」というのは、月並みな出だしではあるが、分かりやすい。テレビは分かりやすさが命だから、結局のところ編集の際にこのような出だしを採用することが多い。撮っておくに如くはない。
 今回カメラをまわすのはこれが初めてで、つまりここでクランクインとなる。
 カメラマンは土肥氏。私より年が二つ上の、スリムな山男だ。大学時代は山岳部で全てを過ごしたと言っていた。確かにニッカボッカ、ヤッケ、そういったモノがよく似合いそうな人物ではある。
 教授のランドクルーザーを猛スピードで追い越し、待ち受ける。目の前を通り過ぎた後、教授に待っていてもらい、砂漠のカットを少々撮った後、追いすがる。
 いつもそうだが、取材相手に待ってもらう行為、こいつも「やらせ」になるのかなあと思ったりもする。
 私は、まあ、そうは思わない立場だ。
 薄い色の雲があるだけの、晴天だ。直射日光が痛い。
 小さな禿げ山が砂に覆われて連なる。サボテンが点在する。
 サボテンの種類は二つあって、ひとつは何という名前かは知らないが、人間が立っているような形のメキシコ的な、いわゆるサボテンだ。例のアミーゴだ。高さが二二メートル以上あるのもある。もう一つはバレーボールくらいの大きさの、玉状のものだ。時折、黄色と赤の花を咲かせているのを見かける。
 所々にそれらのサボテンの死骸がある。
 皮と内部繊維だけを残し、ころころと転がっている。持ち上げてみると非常に軽い。踏みつけるとあっけなく崩れる。
 「死」という概念が実に自然に想起される。
 風景の中で動くものは我々と、そして視界の端でちょろりと動くトカゲだけだ。
 乾燥している。
 砂漠を越えると、緑が多少なりとも増えてくる。同じ種類の樹木が多い。アルガロボという木だそうだ。
 小さな集落が幾つかあり(その集落がサランダだのピティポだのの村だ)、そして最後にバタングランデ村があった。人口およそ千人。真ん中にロータリーがあり、その中に公園のようなものがあり、十字架が掲げてある。
 そこを取り囲むような形で家々が並ぶ。円の形をとる村だ。
 住居は皆、日干し煉瓦(アドベ)を積んで作ったもので、そこに緑やら青やらの少々毒々しい色使いのペンキが塗ってある。住民は様々でアジア人の様な顔をした人や、ヨーロッパ的な顔をした人もいる。皆一様に色が浅黒い。あきれるほど子供が多い。
 村に到着すると、教授は忙しそうに村の色々な人のもとを巡った。村長の代理のような人(村長は留守だった)、農業協同組合の組合長、炊事のお婆さん。皆が皆、教授を本当に歓迎している風で、おおさすが、と思う。勿論、カメラも回し続けた。
 疲れ切ってホテルに帰り、プリンタをパソコンに繋いだが、どうにも調子が悪い。紙がうまい具合に送られない。決してペルーだからというわけではなかろう。何とか期間内は保たして、東京に帰ったらメーカーに文句を言わなくてはならない。

*この日の記述にはやたら「アミーゴ」という言葉が出てくる。
 私は、この言葉を「チョイナ、チョイナ」とか「オーレ」のような、その文化特有のかけ声の一種だと思っていたのだ。
 だが、後で聞いたところによると、アミーゴとは、スペイン語の「友」であるらしい。私が知らなかっただけで、常識だそうだ。
「アミーゴ!」とかけ声のように用いられるのは「友よ!」と語りかけるそれだったのだ。
 私はそのことを知らず、教授に向かって、ことあるごとに「いやー、アミーゴ!ってかんじの風景ですねえ」とか「アミーゴ精神ですねえ」などと言っていた。
 まるきり馬鹿である。
 教授は何だこの男は、と思っていたことだろう。

 95/7/7

 小川様、西野様、穴水様

 昨日は島田教授にくっついて、チクラヨ、バタングランデ周辺の関係者への挨拶廻りとなりました。
 チクラヨからバタングランデに行く道は凄いですね。まさにアミーゴ、カラムーチョです。

*まだ言ってる。

 砂漠の中に低木と類型的なメキシコ的サボテンが並んでいます。こんな風景はブラウン管の中にしか存在しないと思ったら本当にあるのですね。そして、聞いていたとおり砂埃がとんでもない。義井氏の話では、前回よりずっと砂漠化が進んでいるそうです。
 さて、今回の放送のキーワードは「下世話」であると私は勝手に考えておりまして、とにかく人間くさい映像をと心掛け、撮っていこうと考えております。ところがところが、教授はなかなか難物でして、私としましては人間、島田泉をフューチャーしていこうというところなのですが、教授はあの通りのお人柄でして、何かいうと怒られそうで、恐いです。
 教授は今シーズンは顎髭だけを伸ばしています。何だかたけし軍団に似たような人がいたなあという風貌です。

 まだ、ここに着いて二日目。発掘すら始まっていないのにバタングランデから帰ってくると、大変疲れている。さあ書こうとパソコンに向かうと、まずゲームのファイルを開けてしまう。頭を使わないゲームをする。テトリスの類だ。無為な時間である。
 帰ったらすぐに寝て、朝に書くべきか、それともその日のうちに書いていくべきなのか、迷うところだ。
 朝書く場合は頭すっきりで良いことは良いのだが、昨日のことを忘れてしまっていることが難点。更に難点なのが、このファクシミリが東京に着き、シカンスタッフの諸氏が見る頃には次の日になっていることだ。対して今日のように疲労状態で書き続けるのもたまらないのである。現在たまらない。さっきまで例の無為なゲームをやっていた。更に、気を抜くと、いつの間にかベッドに横たわってしまう。
 だが、仕事なのだ。毎日の報告のファクシミリを毎日送り続けることは、私に課された重要な仕事の一つなのである。
 そして、いったん書き始めると、それなりに書き続けてしまう。基本的に「書く」ということが好きなのだ。私は。
 まさかこんなに長いファクシミリが送られるとは思わなかっただろう。小川部長も、西野氏も。

*後で聞いたら、苦笑混じりに「疋田、何だ、あの報告は。肝心なことがちょびっとしか書かれていなくて、どうでもいいことばかり牛の涎のように書いてあるではないか。読む方だって忙しいのだ。いい加減にしろ」とのことであった。
 だが、このファクシミリ日記を書くことこそ、私の唯一の娯楽だったのだ。ペルー滞在が長くなればなるほど、そうなった。だから後になってくるほど一日の描写は長くなる。
 小川部長の苦笑は尤もだが、書く方は読む方の一〇倍の時間をかけているのだ。部長以下、我慢して読んでいただきたい、と私は思っていた。
 そして、謎の美女、穴水女史が返事のファクシミリを毎日送ってくれることが私の励みだった。時々「昨日のは面白かったわよ」などと書いてくれるから、私は調子に乗って書き続けたのだ。時として睡眠時間をかなり削って。

 仕事の中でも私が一番好きなのは、原稿を書くことだ。
 多くの人はテレビのナレーション原稿は、いわゆる「放送作家」という人々が書いているものだと思っているが、実際はかなり違う。勿論そういう仕事のやり方を好むディレクターもいるだろうが、基本的にこうしたドキュメンタリーのナレーション原稿はディレクターが書くものなのだ。そう思っているディレクターは多い。現場で取材した人間が書かなくて誰が書く、てなものである。私は当たり前だと思う。
 さて、金曜日ということもあって、ホテルの近くの何かの建物では何やら祭りのようなことをやっている。大音量で現地のダンスミュージックがかかっている。哀愁のこもった何やらスペイン調の私好みの音楽なのだが、少々音量が大きい。明日になったら例によって渡辺氏が「眠れない」と文句を言いまくるであろう。このオヤジはとにかく何につけて文句ばかり言う。ますます立川談志だ。そして、談志が憎まれにくいのと同様に、彼も憎まれ難いと思う。そういう憎めない性質の人間というのは確かにいるのだ。
 基本的には悪い人ではない。だが、何しろこの年代の(昭和一七年生まれだそうだ)オヤジたちは、自分の世界の範疇に属さないものに対しては非常に口が悪い。
 ペルーに対する文句ばかり言う。やたらと日本では日本ではと言い立てている。ここはペルーなのだ。ペルー人のエミリオ氏がいるというのにはらはらする。
 さらに彼の言うことは、基本的に単純国粋主義的発想のものが多い。私が聞いていても、それはどうかいな、と思うことが多いのに、ここには義井氏がいるのである。義井氏は先に述べたが、元全共闘なのだ。はらはらする。
 この世代のオヤジたちに共通のことだが、物事を単純化して印象だけで語りすぎると思う。私の父親もその口だ。二世のエミリオ氏にも色々な思いがあろう。「エミリオさんは日本人ですから」と言われて、エミリオ氏は果たして嬉しいだろうか。
 さて、本日は割合に楽な日ではあった。最初にこんな余裕の取材をしていて良いのだろうかと不安になる。
 教授の引っ越しの撮影。宿舎の掃除、井戸の掘り返しなど。さらにチクラヨからバタングランデに行く際の砂漠を相米慎二風(つまり長回しということだ)に撮った。
 時間はかかったがそれだけである。やはり少々不安。
 明日は教授の引っ越しの完了(壁塗り、網戸張りなどになるだろう)とバタングランデの土曜市。この二つが基本であるが、この中でノリの良い子供を捕まえよう。
 撮影に際するテーマを絞らなくてはならないと思う。まだ、ロロ神殿発掘の現地に足を踏み入れていないのが、基本的に迷うところだが、周辺については考えなくてはならない。
 今回のテーマはやはり「下世話」にあると思う。
 前回、そしてそれ以前の放送を見て、圧倒的に私が感じたことは、発掘現場の作業員たちの顔や、発掘現場の雰囲気そのものが見えないことだった。
 ブラウン管の中で繰り広げられる、巨大な穴を相手に格闘する島田教授は、一体どんなところにいるのか、どんな人々と作業をしているのか、そのあたりが見えてこないのだ。ここはどこで、どんなところで、人々はどんな生活をしているのか、東京で私はそこが知りたかった。今は目の前にしている。発掘が始まらない現在、私の興味の焦点はそこにある。現在、実際にそれを見ている。面白いと思う。
 いわゆる観光地ではないために、リアルなペルー人たちの生活が見えてくる。
 それは私だけが興味を持つ、という種類のものではないだろう。

1 子供たち
2 盗掘者たち
3 シャーマンたち
4 発掘労働者たち
5 ペルーの情勢、バタングランデの村民た  ちのリアルな生活
6 若い女性、男性
7 動物、植生
8 フジモリ大統領と田舎の政治

 気づいたら又書き足していこう。それぞれの取材ポイントについては今は疲れていて書く気力がない。

 バタングランデの子供たちの中に川崎ヴェルディの洋服を着ているのがいた。その子の父親が日本に出稼ぎに行っていたのだそうだ。その子は一六歳。幼く見える。
 別の一八歳のアメリカン突っ張り風の青年は(六〇年代風)、我々に会うなり「日本に職はないか」と言った。日本の黄金の国ぶりはこんな南米の辺境にも知られているのだ。黄金の国「シカン」よりも現実の富なのだ。
 バタングランデにとってチクラヨは大都会だ。首都リマなどはほとんど外国に近い。ましてや日本。我々は宇宙人である。歩いていると子供たちが寄ってきて、すぐに子供だかりが出来る。我々が片言のスペイン語でも喋ろうものなら大喜びだ。皆可愛らしい。ペルー人は、特に女性は、大きくなってしまうと急速にいかつくなってあまり魅力を感じないが、小中学校の生徒たちは一人残らず可愛らしい。
 その魅力の一番の原因は素直さだ。そういえば宮崎の日南市(私は住んでいたことがある)で幼稚園の取材をした時も似たような感想を持った。
 同じ時期、私は幼稚園の取材ばかりやっており、勿論、都内の幼稚園も取材していた。ひねた都会の園児に較べて日本の果ての園児は素直だった。可愛らしかった。そして年齢のわりに幼い。それはバタングランデにも言える。
 ここの地方は幼すぎるくらいだ。少女に「四つかな」と尋ねたら「八歳」と答えた。先のヴェルディの服を着た少年アンディは、せいぜい一二歳くらいにしか見えなかった。
 この地方の場合は食べ物の問題も少なからずあるに違いない。
 少年たちはサーヴィス精神旺盛で、我々を笑わせるためにオチンチンを出すことも厭わない。皆よく笑う。
 だが、私の腕時計を指さして「くれないか」と言う年齢になると、その無邪気な素直な精神も変質してくるのだろう。一方で当たり前のことだとも思うが、残念な気持ちも勿論ある。彼らの親と私には、収入に三〇倍くらいの差があるし、日本とペルーのバックグラウンドも違いすぎる。何が彼らを変質させるといって、日欧米の先進各国と自らとの如何ともしがたい違いほどその要因となるものはないだろう。
 南米のこんな田舎村にもテレビ(バタンの裕福な家庭は持っている)などを通じて日本の情報は伝わってくる(多分に誇張されてはいるが)。アメリカ合衆国の怒涛のような豊かさの情報は溢れるばかりだ。
 それがどんな意味を持っているのかを知るごとに、少年たちは絶望的になり、バタングランデ村に生まれたことを呪うようになるのかも知れない。
 少々暗い気分になる。
 一二時になったというのに、窓の外の哀愁のダンスミュージックはまだまだ大音量だ。
 ここで生まれ、ここで育ったら私はどうだっただろう。

 95/7/8

 島田教授の引っ越しが続く。井戸から水が出てきた。茶色く濁った水である。土や汚れを沈殿させて、一回沸かせば、何とかしよう出来るかも知れない。
 中で掘っているのはエクトル氏。発掘労働者のベテランである。物静かな、東洋系の中でも特に日本人のような顔をした人物だ。この人の後を追って、家までついていった。カメラは背後から回っている。掘ったて小屋である。たくさんの動物を飼っていた。羊、馬、七面鳥、鶏、猫、犬、九官鳥、山羊、それぞれに子供がたくさんいる。可愛らしい。娘が一人と甥っ子が一人いた。それぞれ一一歳と一四歳。例によって年齢よりもかなり幼く見える。これ又可愛らしい。
 さて、教授は宿舎の中を忙しく動きまわり、時々、外に出かけては帰ってくる。引っ越しの雑感(作業の雰囲気などを色々なアングルでカメラに収めたもの)は撮ってしまったし、我々、テレビのスタッフは少々暇になってしまった。
 バタン村中心のロータリーには多くの暇な子供や若者たちが集まってくる。
 カメラマンの土肥氏はバタングランデ地元の娘たち(二〇歳前後)とバレーボールをしていた。VEの内田氏は、日本に行きたい一九歳の娘に昼食に誘われていた。ここで日本人でいることはある種、楽しいことなのかも知れぬ。
 私はといえば、ガキどもばかりが周りに集まってきた。私としては少々もの哀しい。
 土肥カメラマンはナイスガイなスポーツマンで、当然バレーもうまい。それは万国共通に大きな価値を持つものだ。こんなバタングランデの娘っ子にもそれは一目で識別されるらしい。
 サウンドマン内田氏はまんざらでもないという風情である。彼は背こそ低いが、少林寺拳法の達人である。
 エミリオ氏は少々申し訳なさそうにしている。テレビクルーが現地に何となくいる、という風情になることを、彼は自分の責任と思うようなのだ。
 氏はかつて、あの有名な「川口浩探検隊」もコーディネートしてきた。
 冗談話の中で、彼はその体験を面白おかしく話してくれる。
「ヒキータさーん、カワグーチ探検隊はこうよ。なーんでもない道だって、カメラを斜めにして、崖にしちゃうのよ。みんな普通の坂道を四つん這いになって歩くのよ。エミリオ(自分のことをこう言う)も写るから、カワグーチ隊長に『エミリオ、もっと苦しそうに這いつくばれ』なんて言われたものよ」
 我々はゲラゲラ笑う。エミリオ氏の喋りの巧みさもあるのだ。
 そういう体験を繰り返してきたからこそ、彼は通常の「日本のテレビ」欲しがるものをよく知っている。そして日本のテレビがこういった一見無為な時間を嫌うことも。
 だから何だか彼は申し訳なさそうなのだ。
 私も通常の「一週間後の放送に間に合わなければ」というような中での話だったら、目の色が変わっていたかも知れぬ。
 だが、今回の取材は少々毛色が異なっているのだ。何しろ放送の目途すら立っていない。しかも放送はあくまで発掘如何によるのだ。
 まあ、焦ってもしょうがありませんよ。
 内心で焦るときは焦るぜ、と思いながらも私もエミリオ氏に言う。
 発掘はまだ始まらない。
 島田教授にもいろいろと準備があるのだろう。

 95/7/9
 
 朝のバタングランデ村ロングショット(高い位置などから撮った広い映像)を撮るために、五時にここを出発した。
 チクラヨからバタングランデ村への道を離れて、サバンナの中の道なき道を徒歩で一時間くらい歩く。その歩いた先に小山があって、そこに登るのだ。
 村全体の絵が撮れるのはそこしかないのだそうだ。昨日、バタングランデ村の農業組合長がそう言っていた。
 小山とは言っても、撮影機材を抱えて登るのだから、結構骨が折れる。これも当然、道なき小山だ。サバンナの木々が枝を伸ばす中をかき分けて行くから、機材に引っかかったりで、なかなか進まない。
 撮影機材とはカメラ、三脚、それにビデオテープやバッテリーなどを入れたグリーンボックスと呼ばれるものの三つ。今回の撮影は単に音のない昼間の絵を撮るだけだから、これですむ。あとはクルマかホテルの中に置いてきた。カメラが一番軽くて、それでも八キロ。グリーンボックスは一五キロ前後。
 これが、インタビュー有りで、更に夜だったりすると、機材の重さは倍増となる。照明器具と音声、マイクやミキサーなどがつくからだ。
 国内取材の時は我々取材クルーは、大抵、ディレクターとカメラマン、サウンドマン、照明の四人で編成される。
 このうち、ディレクターを除く三人が技術スタッフで、カメラマンは勿論、一番偉くて威張っている。その次がサウンドマン、一番若いのが照明をやる。大抵の場合。
 これが、ドラマや歌番組などのスタジオ撮りになると、照明スタッフは、一躍、偉い人になってしまうので、状況は変わってくる。これはあくまでニュースやドキュメンタリー撮影の場合だ。
 この照明さんが大変なのだ。
 座りのインタビューに照明機材を立てたり、夕暮れを過ぎたときや室内撮影の時に、ライトを持って被写体を追い回すのが仕事なのだが、それ以外の時は、彼らの役目は「荷物持ち」という側面が非常に色濃い。
 新幹線の東京駅や新大阪駅でよく見ていると、ときどきテレビ局のカメラクルーの移動場面に出くわすことがあるが、その時、とんでもない量の荷物を両肩にぶら下げて、一番後ろから歩いてくるのが、照明さんだ。バッテリーが入っている鞄が一番重く、一五キロ以上ある。それらを四個から五個ぶら下げなくてはならない。総重量は四〇キロ前後となる。
 放送、映像の専門学校を出たてで制作会社に入ると、まず担当するのがこの照明だ。だから、照明さんは皆、若い。これを四、五年やると、サウンドマンに昇格し、更にそれを四、五年こなして、ようやくカメラを担ぐことが出来るのだ。
 だから、必然的に、カメラクルーは体育会系の精神構造を持つようになる。
 TBSの場合、社会部や、外信部、政治部など記者だけがいる部、ディレクターやADがいるそれぞれの番組部門の他に、映像部というところがある。カメラクルーのセクションである。
 比較的リベラルな雰囲気を持つ報道局の中で、そのセクションだけは上下関係が厳しい。余計なことだが、宴会も派手だ。その末席に座るのが、照明さんたちとなる。
 さて、その照明さんなのだが、海外出張には彼らはやって来ない。海外の方が、移動その他、大変なことが多いから人員増強をする方が普通のようなのだが、実体は限りなく逆だ。海外は一人派遣するにも数十万、百数十万単位のお金が出て行くから、よほどのことがない限りフル人員では行けないのである。
 よって、海外では荷物運びも、ディレクターの重要な任務となってくる。小山では私は三脚を担当した。持ち慣れないと、三脚はでかいし、重い。
 おまけに訳の分からないことに、ヴィンテンなどの外国製三脚(殆どのテレビ局はこのメーカーのものを使っている。ドイツの会社)は最も値段の高い機材の一つで、扱いには慎重を要する。何しろ三脚が一つ一〇〇万円を越すのだ。
 ちなみにカメラは、ファインダーやレンズをあわせると、七〇〇万円前後となる。放送機材は高い。 
 小山の上は、遺跡の巣窟であった。石を積み上げた砦様のものが、沢山築かれていた。こんなところにいったい何のため作られたのかは分からないが、インカ帝国時代のものだそうだ。
 霧が晴れるのを一時間半ほど待って、撮った。山が砂漠になり、砂漠が草原になり、その中にバタングランデの村が出現する。非常に美しい。
 その後、バタングランデ村の裏山(これは低い)に登ってここの名称の由来である、石臼を撮った。夥しい量の石臼が無造作に落ちている。「バタングランデ」という言葉の意味は「大きな石臼」である。
 その石臼の一つ一つが一〇〇〇年以上前のものだ。砂埃にまみれ、雨に洗われながら存在してきたのだ。
 この石臼の謎を解いたのも、島田教授だった。
 石臼は、直径八〇センチ前後の比較的大きな石の表面を、平らにして、その真ん中を薄い擂り鉢状にしたものだ。擂り鉢状といっても深いものではない。せいぜい雨水が若干溜まるかな、という程度だ。それに丸い石がペアになっている。
 シカン以降のバタングランデの住民たちは、これらの古代の石臼のことを元々は何であったのかを知ることもなく、裏山から拾ってきて麦や芋などを擦り潰すのに使っていた。だが、あまり使い勝手の良いものではない。本来の使い方と違うのだろうと思われた。
 そして、この石臼がバタン村の裏山に集中して放置されているのは何故か。
 その答えが、シカン文化の金属製品だった。
 シカンの黄金と呼ばれているものは、実は黄金だけで出来ているのではないことは分かっていた。黄金の輝きを持つものは一種の合金で、金の含有率はその彫刻と同様、様々だった。より高貴なもの、つまり彫刻が精緻なものは、より金の含有率が高い。
 その他の成分は多くの場合、銀と銅。この三種類の金属を使った合金はトゥンバガと呼ばれる。
 このトゥンバガを作ったのが、この石臼だったのだ。バタングランデでは、金は採れない(金はアマゾン地方から持ってこられたものと推測されている)。が、かつて銅を大量に産出した。
 石臼はその銅の鉱石を砕くために使われたのだ。バタンの裏山は恐らく、その銅の精錬場があったところだったのだろう。
 シカンの滅亡とともに、その精錬場そのものは無くなってしまったが、重い石臼だけはそこに放置されたのだ。
 島田教授の説だ。

 午後二時からその島田教授のロングインタビュー。今回、西の墓を掘るのは何故かを中心に色々な話を聞いた。
 この種のインタビューを撮る場合、そのVTRの使いどころは、特集の初めの部分になる。基本的なことの説明はVTRの中で、教授の口からやって貰った方が効果的だ。
 だが、その為に、分かり切ったことも質問せねばならない。
「何故西の墓を掘るのですか」など、その最たるものだ。教授も何を今更、何言ってるの、という気持ちだろうが、聞く方にしてもそれはそうだ。いちいち「そんなことは分かってるんですけどね」とクレジットを入れながら聞くのも、馬鹿げた話だし、そうなると、おざなりの返事しかかえってこないことになる。
「お前、それくらいのことは勉強してこいよ」と思われてるだろうなあ、と思いながら、それでもカメラは回る。
 よく、テレビの記者は勉強してこなくて、などという識者の話が雑誌などに載ったりするが、そういう事情もあるのだ。すべてがそうだとは言わないけれど。
 インタビューは引っ越しの雑音ががたがたと入る中で行われた。せわしなかった。
 その後、教授はバタン村の近くのサランダ村へ出かけていき、労働者たちを集めて訓示を行った。
 発掘の決起集会である。
 今回の発掘に関わる作業員たちの殆どは、東の発掘、それ以前にも関わった発掘のプロだ。マイクを向けると、皆が一様に「教授との仕事を誇りに思っている」と言う。
 明日からようやく本格的発掘である。
 ペルーに入ってから、今日でちょうど一週間だ。

 95/7/10

 VTRでは何度も見ていたが、私にとって現実に見るのは初めてだ。
 その初対面のロロ神殿は、昨日、発掘作業員たちの集会を行ったサランダ村の更に奥にあった。バタングランデ村近くのこの地域には、多くの神殿がある。ただし神殿とは言っても、近づいてみると、単なる土の山だ。高さがおよそ二〇メートル程度だろうか、アルガロボの木が茂る周りの風景の中にここだけ剥きだしの土が聳えている。
 もとは日干し煉瓦(アドベ)を積み重ねた整然としたものだったのだろう。だが、造られてから一〇〇〇年を過ぎ、雨に降られ、アドベが溶けてしまったのだ。よくよく見ると、山の壁に、かつて煉瓦を積み重ねていたことを示す横縞が見える。
 かつて神殿、今、土の山の上には、山羊の親子が登っていた。山羊は、地元の住民が飼っているものなのだが、この周辺を自由に歩き回っている。餌もアルガロボの葉を勝手に食べている。よく見ると耳が片一方無い。子供の時にはさみで切ってしまうのだそうだ。この片耳で、山羊が誰かの所有物であることが分かる。
 今日から本格的な掘削に入るはずだったのだが、集まった労働者たちが樹木を切り払って、土をならすだけに終わった。おまけに島田教授は道具が足りないとのことで、チクラヨに出かけていってしまった。
 渡辺氏の地中レーダー探査も始まるには始まったが、まだ前回の補助段階だそうだ。
 今日は早めに引き上げた。
 チクラヨに帰って来ても、まだ日があったので、チクラヨ中心部の市場などに行った。
 物は豊富である。しかも安い。妙な電化製品がたくさんおいてある。スニーのラジカセやマックスシタのオーディオテープなどである。
 ラジカセを買った。ステレオ、グラフィックイコライザー付きで一八〇〇円である。少々異常な値段だ。
 今日は眠かった。疲れた。

 95/7/11

 もう一一日になってしまった。時のたつのが早い。
 今朝、教授は又しても物が足りないと、チクラヨに行ってしまった。よってロロ神殿の現場は学生と作業員たちだけである。一日、だれた日をおくってしまった。
 教授がいないと作業員たちが働かない。作業能率がどう少なく見積もっても七〇パーセントは落ちる。おまけに学生たちも日陰で腰掛けているばかりだ。仕様がないので我々も日陰で腰掛けていた。カメラはちっともまわらない。本日は初めて本格的な発掘のシャベルが入る筈の日だったのである。ところが、今日も一日が整地作業だけで終わってしまった。
 困るのである。限られた日数の中で、何とかスペクタクル巨編を撮りたい我々としては。
 今日撮った映像と言えば、作業員がのろのろと砂山(前回の発掘のあとに残されたもの)を壊している姿と学生たちがこれ又のろのろと発掘するべき場所にロープを張っただけであった。あと、作業後の川での水浴びシーンも撮った。ちっともスペクタクルではない。
 この地の学校は現在、先生たちのストライキ中でまともに授業をやっていない。
 発掘とは関係がないが、現地の生活その他を撮りたい私としては、ストライキの合間を縫って(変だな)金曜日に地元の小学校と中学校を撮影することにしてもらった。例の「下世話」部分である。おまけに島田教授に聞かせる「シカンの歌」付きである。何ともはや健全なドキュメンタリーである。予定調和である。国営放送のようだ。だが、そういうものを撮っていかないことには枠が埋まらない。
 今朝、東京の西野氏と電話で話したら、他のものを撮りに、発掘現場を離れてはいけないとの指令であった。それは勿論そうであるのだが、それでは新味が出ない。すべてやり尽くした後に三週間で発掘のすべてを撮り、かつ疋田カラーを出せとはなかなか難しい話ではあるのだ。
 ようやく島田教授とまともに会話が出来るようになってきた。島田教授も小さな冗談を言うようになった。
 さてさて、構成について考えざるを得ない。
 基本的には「島田教授、二度目の発掘に挑む!東側の墓の謎を解くカギはすべて西側の巨大な棺にあった!」だと思うのだが、そこに下世話を挟み込む。下世話とは何か、あんまり無いのだなあ、これが。
 いつものパターンで考えるなら、時系列で発掘作業を追う中にバタングランデの様子、ペルーの様子を挟み込むというところなのだろうが、問題はその挟み込む内容である。
 現在までに考えていることは以下の通り。

1 無邪気!バタングランデの子供たち
 基本的に作業員の子供が主人公になるのだと思う。エクトル氏の一一歳の娘などは可愛らしくて適当かも知れぬ。学校での一日、家に帰ってきてから、など一日を密着するのと同時に母親の一日、親戚家族、近所の人々、学校の友達などの生態が見えてくれば良いと思う。勿論、作業員エクトル氏も主人公の一人となる。
 近所の日本帰りのお兄ちゃん(佐川急便で働いて今ではトラック三台を持ち悠々自適だ。二三歳)、どうしても日本で働きたいお姉ちゃん(一八歳)、猛烈なフジモリびいきの美術の先生などもバイプレーヤーとなろう。
2 秘境!大トカゲを常食とする村
 チクラヨから車で二時間、その村はある。砂漠を走りまくるトカゲを捕まえる手段、それを料理する様子、などグロい映像に理屈をかぶせていく。曰くこの地域に伝わる伝説、シャーマンの儀式、その際に使用する麻薬、その他。
「その他」と書けば何やら色々な取材が出来てしまうようだ。実際はさっぱり分からない。かいもく見当がつかない。
 しかしさらにトカゲにかこつけて付近の動物たちも描けるぞ。山羊もいるぞ、牛も馬も犬も猫も鶏も七面鳥もいるぞ。夕方になると道の脇にたくさんの足を縛られた山羊たちが並ぶ。みんなトラックに乗せられて、次の日には肉になってしまうのだ。悲哀。さらにさらにアルガロボなどの植物についてもどうだ。教育テレビにしてしまおう。
 だが、発掘とは全く関係がないなあ。
3 アミーゴ!暗躍する盗掘者たち
 チャンカイ、ナスカ地方に暗躍する謎の盗掘者シンジケートとそれを取り締まろうとするインターポール。だまし合いの駆け引きの中で、火花を散らす頭脳戦。背後にちらつくフリーメーソンの影。すべてを知る男の名は人呼んで「片腕のスパルタカス」。総額五〇〇〇億円の金の行方はどこに。
 そんなものがどこで撮れるのか。
4 首都!リマ
 なああんにも調べてないのでさっぱり分からないが、何かありそうだなあ。発展途上国の首都は何であれ、パワーがあって好きだ。フジモリ大統領がらみで何か無理かな。
 さらにリマでなくともチクラヨでも良い。それなりの都市だ。私は好きだ。ここに住んだっていい。
 
 だが、発掘が進まないことにはこれらのものも宙に浮いてしまう。
 とにかく発掘の行方はどこに、なのだ。

 バタングランデの良さは一つには乾燥した田舎の良さだ。日本で「田舎は良いなあ」などと言ってみた後で「でもやっぱり、、、」と思うきっかけとなるのは多くの場合臭いである。動物は良いなあ、といってもその障害となるのもやはり臭いだ。
 ここにはそれがない。乾燥しているから糞に細菌が繁殖しないのである。牛糞がすぐに乾いてしまう。土と同じだ。これを燃料にするのも至極納得できる。何しろ不潔感が非常に希薄なのだ。
 牛や山羊や馬は勝手に水を飲みに行き、勝手に草を食べ、手が掛からない。糞も勝手なところで垂れて、その後始末がいらない。臭くもない。
 人と家畜が最も少ない労力で共存できる。サトウキビもトウモロコシも種をまけば勝手に育つ。
 昼間は暑いが、夜は涼しい。昼間の暑さにしたって乾燥しているから不快指数はそれほど高くない。日陰にはいれば良い風が吹いてくる。冷房も暖房もいらない。
 ひょっとしてここは地上の楽園ではないのか。
 義井氏は「そうかもなあ」と笑っていた。夏は違うよ、とも言った。
 そうなのだ。現在ここは真冬なのである。

 95/7/12

小川様 西野様 穴水様

 エミリオ氏の話によると私はバタングランデ村で「ハポネス、ジャック・ニコルソン」と呼ばれているのだそうです。そういえばペルーには髪の薄い人間が極度に少ないですね。私はチクラヨに来てからと言うもの鏡以外にそのような人間を見たことがありません。私は実はこの地ではとんでもなく変わった人間に見られているのかも知れません。
 しかし、ジャック・ニコルソンはいいな。私の最高に好きな俳優の一人です。少々気に入りました。ただニコルソンは肌が白い。今や私は真っ黒けです。
 ファクシミリは届いています。ご安心ください。
 ですが小川さんのファクシミリは二枚。「どうだ?」というのと「日記拝見」というやつだけです。肝心の「ヒント集」が届いておりません。是非、再送をお願いします。
 東京も暑いようですね。こちらも暑いですが、過ごし易さはこちらの方が上でしょう。何しろチクラヨに来てからというもの、エアコンの風にあたったことがないし、その必要も感じません。東京の猛暑を思うと「オウッ!テリブル!」です。
 
 やっと発掘に入った。北側の墓である。ラファエル氏が責任者となる。学生たちと教授が砂をなでるようにかき集めて、いちいち篩にかけて、土器のかけらと土とを選り分けた。今日一日の出来高は地表より一五センチである。
 島田教授は「何かが出てくるのは二メートル掘ったところからでしょう」と、こともなく言い放った。

*これは後から考えると大嘘になった。ロロ神殿西の墓はそんな生やさしいものではなかったのだ。

 私が「それはいつになりますか」と問うと「一週間程度ですね」との仰せだった。
 それならばまだ間に合う、と少々嬉しくなった。
 私はここにとりあえず一ヶ月いることが出来る。そして、その間に何らかの、金もしくはそれに準ずる価値あるものが出てきたときのみ、ここに居座ることを許されるのだ。
 何故ならば、番組を作るにあたって、この一ヶ月が編成局を納得させる猶予期間となるからだ。
 編成局とはテレビ局の司令塔とも言えるセクションで、文字どおり番組の編成をする。番組の予算枠を決め、キャスティングを調整し、裏番組を考え、視聴率に一喜一憂する、つまりはテレビ局はこのセクションを中心に動いているという部署だ。
 その編成からゴーが出れば、予算がつく。何もなければそれは出ない。この一ヶ月は我々テレビスタッフにとっては重要なのだ。
 編成としては「黄金ザクザク」のイメージが無ければ、視聴率はとれない、と信じ込んでいるから、そういった報告が出来ない限り、番組は無いのである。
 西側の墓は現在、樹木の伐採に入っている。
 島田教授自ら、切った木を運ぶ中に加わっている。
 島田教授は本当に学者らしくて何かこの頃は潔い気持ちよさを感じる。作業員に対しての言葉遣いも非常に丁寧なのだそうだ。エミリオ氏の話。
 VE内田氏が風邪用のマスクをしている(本当は土埃よけ)のにもいち早く気を使う。何だか優しい。偏屈な学者バカなのかも知れぬというかすかな不安を感じていたが、どうやらそれは間違いだったようだ。
 明日からの予定は次のようになる。
 まず明日は五時半にここを出て、エクトル氏の家に行く。エクトル氏の一日を撮るのだ。
 主人公はこの間会った小学生の娘である。サランダ村にある学校は非常に近い。さらにロロ神殿も非常に近い。都合がいい。何が撮れるかは分からない。運試しである。ここの娘は非常に可愛らしい。
 シカンの遺跡からは少女と言えるような若い女性の生け贄が多数発掘されるが、この子がもしもシカンの時代に生まれていたらひょっとして神殿に埋められていたかも知れないのだ。そのあたりのことを原稿に入れていけば(勿論歴史的考察の下に)、深みがちょっと出るかも知れない。
 明後日は発掘の続きとバタングランデの中学校を撮る。というよりここの音楽の先生を撮る。例の「シカンの歌」の作曲者だ。その後、島田教授に歌を聴かせる演奏会となる。伝統的楽器を使って七人編成のバンドだそうだ。その後、再び教授のロングインタビュー。今度は夜ヴァージョンだ。
 その次の日の昼間はまだ予定が立ってない。夜はバタングランデ村のダンスパーティである。島田教授が踊ればよいが。
 エミリオ氏の話によると興が乗れば顔を出すのだそうだ。同日、村の婆さんから地元の昔話を聞くつもり。
 その翌日がトカゲ村である。アイキャッチの一つになればと思っての取材だが、何だかよく分からない。この日は日曜日なので発掘作業はない。安心して他の村に行ける唯一の日だ。トカゲ村などでつぶしても良いのかとも思うが、日帰りできる場所はここしかないので仕方がない。
 ここまで。最後の一週間はどう予定を立てて良いものやらよく分からない。
 とにかく何かが発掘できれば流れは変わると思う。
 夕食にはリマからやってきた下野氏が同席した。下野氏は日本電波ニュース社のリマ支局長、兼駐在記者、兼駐在カメラマンだ。氏にはリマで一度会っている。私よりも二つ年上の、おとなしい感じの人である。他人に凄く気を使う。だが、その経歴を聞けば、カンボジアだのヴェトナムだのの危ない国の駐在カメラマンばかりやっていたという。見かけによらずタフなのだ。
 リマの外国人ジャーナリストの間で、彼は「ランボー」と呼ばれている。何故ならば、同社のリマ駐在員は一人きりだから、テレビカメラ以外に三脚も音声機材も一人で運ぶからだ。三脚を肩に載せて歩く姿が、バズーカ砲を抱えて歩くシルベスター・スタローンに準えられているのだ。
 日本電波ニュース社のリマ支局は彼の進言で開局した。だから、彼はその責任をとって、たった一人でここにいるのだ。尤も、支局とは言っても、彼の住居であるマンションにファクシミリと若干のテレビ撮影機材があるだけだ。
 彼にとっては、今のこの状況が、ここ数年来の念願だったそうだ。
「カンボジアも面白かったけど、やっぱり南米が最高ですよ。僕は大学時代、これでもスペイン語を専攻していたし、大学時代に南米を一年くらい放浪したこともありますしね」
 彼は言う。
「会社に入ったときから、南米支局に行きたかったんですよ。でも、入ってみたら、南米には支局は無いって言うじゃないですか。だから、作って貰ったんです。支局は別にリマじゃなくても、コスタリカでもエルサルバドルでもよかったんです。でも、日本人は、エルサルバドルなんて国、名前も知らない人が多いじゃないですか。だから、絶対に通らないと思ってね。
 その点、ペルーは日系人が大統領になったでしょ。これはいけるって。
 でも、存続が大変なんですよ。
 僕らの会社は、局の人に(在京キー局にということ)、その地のネタを映像ごと買い上げて貰って収入を得るって会社でしょ、だから、この一年、ホント大変。
 今年に入ってから、震災とオウムで、海外のネタ、特に南米なんて絶対放送してくれないですから。特にオウムはダメージ大きくて。今でもニュース番組、全部オウムでしょ」
 なるほど。麻原彰晃は、こんな南米の街にも影響を及ぼしていたのだ。私もそれから逃れてここに来たのだけれど。
「これ以上、リマ支局の赤字が続くようであれば(実際は赤字どころではなく、収入ゼロがもう数カ月続いているのだそうだ)、リマ支局閉鎖って言われてるんで、困ってるんですよ。本当にもう、早くオウム騒動が終わって欲しいですよね」

*後に、我々シカンプロジェクトは、この下野リマ支局長に、リマ支局存続のためのお手伝いを、ほんの少しだけすることになる。が、このときはまだ、現地での日本人同士の会話、に過ぎない。

 さて、その夕食なのであるが、おじさん三人の話がことごとくかみ合わない。
 島田教授の側に立って学術的慎重発言をする義井氏と、テレビ的面白ものを撮りましょうよ、とするエミリオ氏と、何だか訳の分からない渡辺氏が三竦みになっている。
 一昨日から義井氏はリマに行っていて今晩帰ってきた。だからその間、我々取材クルーはエミリオ氏と話していることが多かったのだが、エミリオ氏が「ヨシーイさんといると、ヨシーイさん恐いでしょ、私、コーディネートの仕事、やりにくいね」ともらしたことがあった。エミリオ氏の立場になると少々納得できる気もする。
 渡辺氏は相変わらず訳が分からない。エミリオ氏にあの果物が食べたいとか、その手のことばかり言っている。エミリオ氏は少々閉口しているようだ。だが、我々も渡辺氏のそういった要望に便乗したりしているから、批判できる筋合いではなかったりするのだが。
 渡辺氏については、何だか、氏の知り合いの大学の教授がシカンの見学をしたがっているようで、シカンとは別件でそのコーディネート役を頼まれているのだそうだ。
 教授夫人と二人の旅行だという。これは渡辺氏ならずともたまらない。スペイン語のガイドブックを見て「チクラヨの最高級のホテル、ガルザホテルに泊まりたい。プール付きの豪勢なホテルだそうじゃないか」などと計画を立てているという。ガルザホテルとはここである。ファクシミリも満足に届かないここだ。確かにプールはあるが、バスタブはない。お湯も出たり出なかったりする。部屋の壁は剥げている。
 シカン遺跡見学には日帰りのコースを組んでいるのだそうだ。奥方付きである。全然分かっていない。渡辺氏はこの教授のために帰りの予定を四回組み直した。今晩、教授からファクシミリが届いて四回目の組み直しをせざるを得なくなったのである。
 たまらないのは義井氏とエミリオ氏の両氏だ。ヴァリグ航空(日本ペルー間の唯一の直行便を持つブラジルの会社)の方面から文句の電話も来る。
 このことが遠因となって今晩、両氏の間にちょっとした口論が起こった。結局エミリオ氏が引いてしまう。私は横で見ているだけである。
 構成を考えなくてはならないのだが、まだ要素が足りぬ。小川さんの言うとおり、島田教授の本を読み返そうと思う。
 だが、小川部長には誤解があるようだが、我々は昼寝をしているわけではないのではある。

*だけど、こんな長いファクシミリを書いてる暇があるじゃないか、と小川部長は言ったそうだ。
 あとで穴水女史に聞いた。

 95/7/13

小川様、西野様、穴水様

 チクラヨの町はFM放送が充実していて、いろいろの局があるのですが、洋楽(ペルーの曲も洋楽といえば洋楽だ)中心の音楽とニュースだけという実に都合の良い局がありまして、ホテルに帰るとそれを聞きつつパソコンに向かうわけです。ニュースの内容は、スペイン語なので、さっぱり分からないのですが「ショーコーアサハーラ」だけは耳に飛び込んできます。
 オウム事件はその後、何か進展はありましたか。スペースJの今週の視聴率はいかがだったでしょうか。穴水女史の美貌は相変わらずでしょうか。

 エクトル氏の娘は実に実に日本的である。まず、顔立ちが日本人している。美人になると私は思う。
 さらに、そのおとなしさと、一抹のシニカルさがますます日本人だ。学校取材中、休み時間に生徒たちに色々聞いても、彼女は取材クルーをとりまくガキどもの中に加わらない。マイクを向けると質問の答えだけを的確に答える。看護婦になりたいのだそうだ。子供らしい元気さはあまり無い。「文学少女」然としている。
 つまり、取材対象の子供としてはあまり面白い存在ではないのだ。困った。
 でも、私は彼女のような女の子は好きだから、無理矢理主人公の一人にでっち上げてしまおう。
 小学校の子供たちの中に、よく見ると赤と白の肩章をしている子と、金色の肩章をしている子がいる。聞けば「スクールポリス」なのだそうだ。彼らは朝礼の時間にも列の中に加わらず、他の子供を見回っていた。何やら少年映画「狙われた学園」のようだ。しかし、彼らは生徒同士の選挙で選ばれるというから、まあ、他人の国には他人の国のやり方があるということだ。
 発掘は徐々に進んできている。北側の墓は五〇センチの深さになった。西側の墓も二〇センチくらい掘った。勿論まだまだ何も出やしないが、形だけは「遺跡発掘」という様相を呈してきた。今日から井戸掘りエクトル氏も発掘に加わっている。
 夜になるとバタングランデのお爺さんのバースデイパーティがあった。島田教授も参加した。ペルー風ダンスミュージックをフルボリュームでかけ、中庭でお爺さんとお婆さんたちが踊る。ビールとトウモロコシ酒で、ほとんどの人がべろべろになっていた。教授もそれなりに酔っ払っているようで、口調がなめらかだった。教授の好物はなぜか日清の「チキンラーメン」だそうだ。一年に一回は食べないと寂しいのだそうだ。土肥カメラマンが、明日必ず先生の宿舎に持っていくと約束していた。
 土肥氏は何だか大量のインスタントラーメンの類をこの地に持ち込んできているのである。山男である彼は、どこに行くにも食糧の準備をするのだ。そういえば、一昨日だかにチクラヨの市場に行ったときには、巨大なガスコンロを買っていた。
「これで大丈夫」と彼は言った。何が大丈夫なんだか知らないけれど。
 明日の予定は、引き続きの発掘と、例のシカンの歌である。今日と何だか似ている。
 これから撮るべきものを挙げよう。以下順不同。

バタングランデ地方の「神話」「伝説」を知るロベルト氏インタビュー
文化庁長官インタビュー
夜、神秘的にロロ神殿、教授宿舎、バタングランデ村、エクトル家
サトウキビの刈り入れ
バタングランデ村ダンスパーティ
小学校校長インタビュー
ロロ神殿の側に住む婆さんのインタビュー
トカゲ村(行ってみないと分からない)
道、足を縛られた路上の山羊たち、道を進んでロロ神殿が見える(恐らく既撮)ドリー各種
電線、バタングランデ、サランダ
動物各種、虫なども
下から見たアルガロボ
プラットホームから露出するアドベ煉瓦
バタングランデ広場雑感
水のない川
チクラヨ市場たくさんの品物、ペルーの果物、呪術者用の麻薬など

 気づいたら書き足していこう。

*こういう記述は、後で見返すと何だかよく分からないことが多い。特に「下から見たアルガロボ」などというのはさっぱりだ。アルガロボとは現地に沢山生えている木だけれど、下から見上げて何だというのだろう。多分何らかの意図があって、何らかのナレーションを被せようとしたのだろうが、よく分からない。
 多分、このカットは翌日くらいに撮ったのだろう。こういうのは撮りやすいから。だが、放送では使わなかった。
 こういうカットも含め、TBSの倉庫には放送に使わなかった莫大な素材が、永遠に眠り続けることになるのだ。

 95/7/14

小川様、西野様、穴水様

 今日は東京は休みですから、このファクシミリを読む人は誰もいないかも知れませんが、月曜日に読んで下さい。最近私はこれを書くことが生き甲斐になっています。
 西野さん、取材メモをありがとうございました。大変参考になります。パート2も期待しています。

 嬉しいことに、今日からようやく本格的な「発掘記」らしきものが書ける。西側の墓は一メートルほど掘り進み、きっちりとまっすぐに垂直に作られた穴の壁には、多数の地層が覗き始めた。
 上部三〇センチほどは洪水による堆積層、その下にあるのが時代ごとの地層だ。この地層が幅一〇メートルほどの穴の真ん中あたりで陥没している痕が見える。地層の陥没の原因は、その下に空洞があるために長い間にそこが沈んでいった可能性が大だという。その下二メートルほど掘り進むのはまだ先の話になるであろうが、良い兆候である。
 さらに、穴の神殿よりの方角には、何やら壁らしきものが出てきた。素人目には何が壁なのかさっぱり分からないが、壁なんだそうである。島田教授がそう言う前に、すでに作業員は「壁あり」に気がついていて、もうその部分にはシャベルは使っていない。発掘用のヘラのようなものに切り替えていた。凄いものである。作業員というのは間違いで、彼らは立派な調査団員だ。
「調査は順調すぎるほど順調に進んでいます」とは島田教授の弁である。

*ちっともそうではない、ということは後になって分かってきたことだ。

 渡辺氏のレーダー探査も、ようやく以前の調査の補完部分を終え、新たな段階に入った。彼は現在プラットホームの中に何かを探すために、レーダー探査機のセンサーをプラットホームの切り立った部分の壁に斜めに走らせている。センサーを斜めに手で持ちそれで壁を撫でまくっていく作業員は二人。大変な重労働である。渡辺氏の配下についた作業員が一番楽だな、と思っていた今までの認識はここで完全に覆された。
 さて、西野氏から取材メモのファクシミリが届いた。大変参考になる。
 ツミの話は着目すべきだ。さらにロロ神殿本体の地下の推理も面白いと思う。ここで何が撮れるか。島田教授に話を聞いてみようと思う。
 だが、あと一〇日間の現地で何が出来るか、考えてみなくてはならない。ツミは義井氏と相談だ。神殿本体の地下は?
 トカゲ村の撮影が「季節外れ」とのことで(エミリオ氏にかかってきた電話によると、今のシーズンはあまり食用になるトカゲが出てこないのだそうだ)駄目になったので、日曜日は早朝の文化庁長官のインタビューの他は完全な休みの日とした。スタッフは疲労困憊している。特にエミリオ氏と運転手のロンメル氏の疲労が著しい。土曜日は引き続き発掘と現地の伝説を知る婆さんの話、エクトル一家その後、バタングランデのディスコパーティ、その他を撮る。
 ディスコパーティは毎週喧嘩になるそうだ。エミリオ氏の話によると「ここーの人は、お酒飲むと、人間変わるね。ナイフもって暴れる人出るね」だそうである。エミリオ氏は「だからやめた方がいいよ」ということが言いたいのだが、テレビ屋としては面白い。発掘とは、ぜえんぜん関係ないが。
 ところで、人事発令のコピーも西野氏のファクシミリに混じっていた。私も「シカンプロジェクト」の中に入っている。これで東京に帰ってもシカンに専念できる。ありがたい。

 95/7/16

 小川様、西野様、穴水様

 本日はお気楽な日を過ごしてしまいました。詳細は後述の通りです。東京はいかがでしょうか。
 最近我々、取材クルーの間では「我々取材班はついに、、!」と言うのが口癖になっています。エミリオ氏がいることが大きな原因です。ご存じの通り、彼はかつて例の「川口浩探検隊」のコーディネーターをやったことがあり、その時の話を面白おかしくしてくれます。実に愉快です。
 TBSでもあの手の番組を作りませんか。何でしたら、このシカンプロジェクトをそのテストパターンとする、というのではいかがでしょうか。
 そのためにという訳ではなかったのですが、昨日、ロロ神殿の近くで「光る物体が森の中に降りていった」だの「誰もいないのに話し声がする」だの「人魂が新月の夜に必ず現れる」だのの話をしてくれるおじさんおばさんのインタビューも撮ったことですし。(小川さん、勿論、冗談です。本気にして怒らないように)
 ところで「スペースJ」の視聴率は如何でしたか。オウム事件はその後どうなっているのでしょうか。NHKの国際放送を聞いていたら、今日が阪神大震災のちょうど半年後だと言っていました。今年が始まったばかりの、あの神戸の日々を思い出します。私は灘区に三カ月いました。何だか「カンムリョーオオオ!」です。
 「ANA通信」に是非ともオウム事件その他の日本の様子を執筆下さい。

*ANA通信とは穴水女史から私宛に送られるファクシミリに、女史がつけた名前。

 それから、辞令によると、月曜日から西野氏は「スペースJ」から「ニュースの森」に移ったはずですが、今後、このファクシミリはどこに送ればよいのでしょう。番号をお教え下さい。穴水女史のデスクのある報道特集でいいのでしょうか。

 インタビューが一本、あとは休みである。ペルー共和国文化庁長官のインタビューが午後五時になったため、朝の九時頃に起きて、シカンの本などを読んだ後、外にぶらりと出ていった。
 靴磨きの少年に靴を磨いて貰った。連日の発掘作業取材で、靴が微細な砂だらけなのである。靴紐をいったんはずしての丹念な作業だった。本来他人に靴を磨かせるなどという行為は実に尊大傲慢で、とんでもないと思っている。が、このチクラヨという町ではこの靴磨きが実に多い。人も普通に磨かせている。外国は日本ではないのである。
 少年は私を見上げて、何とかかんとかカラテ!と、やはり言った。私は座ったままで空手のポーズ(のようなもの)をとった。少年は笑っていた。
 靴は見事に光った。一ソレス。約四〇円である。
 昨日のことから書こうと思う。
 給料日だった。島田教授が作業員に札束を配る。札束と言っても一〇〇ソレスちょっとである。一日の給料が一五ソレス。およそ六〇〇円。バタングランデでは最高額レベルだそうだ。人間が安い。
 作業員の貰った給料の中に「五〇〇〇〇〇〇」という数字の書かれたお札が混じっていた。五〇〇万インティだそうだ。ソレスの前の貨幣単位である。フジモリ政権以前のインフレで、この桁数となった。現在では同じお札が五ソレスとして流通している。
 恐らく、ペルーは本当にましになったのだろう。フジモリ大統領支持のポスターが町中にべたべたと貼られ、支持率が八〇パーセントを越すのも、少し納得できる。
 現在のインフレ率は殆ど〇パーセントに近い。まあ、米ドルに連動させているというからくりもあるらしいが。
 だが、日常生活の中で毎日五〇〇万インティ札を見せられていれば、良い時代になったね、と思わざるを得ない。それは容易に理解できる。
 ポマ地区の夕陽を撮るためにロロ神殿の近くの別の神殿、ペンタナスに登った。ペンタナス神殿に登るのは、さほどきつい作業ではない。ここは低いのだ。だが、神殿の屋上はロロ神殿よりも広い。土の塊となったアドベ煉瓦の積み重ねが「屋根」からいくつも突き出している。夕刻で、その一つ一つの影が長く、かつエミリオ氏から、祟りがあるだの呪いがかけられているだのの話を聞いたので、多少は不気味に見えるかと思ったが、さにあらず。さわやかな夕刻であった。景色が良い。薄暗くなっていく広がる森の中からいくつもの神殿群が頭を見せている。西にロロ神殿が見え、その右側に夕陽が沈む。ブラウン管の中の風景である。当たり前だ。ブラウン管の中の風景を撮っているのだ。
 夕陽を撮った後、夜景を撮るためにしばらくペンタナス神殿の上に残って、光が消えていくのを待った。待っている間、カメラマンの土肥氏が話を切りだし、ひとしきり穴水女史の話題となった。
 土肥氏は彼女を称して「完璧な美女」と言い切り、義井氏と私がそれに同意した。エミリオ氏は彼女を見ていないので、意見を述べなかった。内田氏は特に何も言わなかった。その理由は後に述べる。
 しかし、話せば話すほど、我々は女史のことを何も知らない、ということのみが分かってくる。三人の情報をすべて寄せ集めても、正確な年齢すら分からない。ミステリアスである。
 分かっているのは、以前、製作会社テレビマンユニオンにいたこと、左手薬指に指輪をしていたりしていなかったりすること、家は横浜にあるが、六本木に「おばさんの家」があること、くらいである。このうち、三つ目が大いなる推測を呼んだ。情報源は義井氏である。
 あやしい。
「おばさん」とは何者であるか。しかも場所が六本木である。これが「おじさん」であれば、あまりに怪しすぎるが故にそれは真実であろう。だが、それがおばさんとねじ曲げられているところに彼女が隠したい何かがあるのではないか。
 だが、結局我々三人は「そのようなことはない」という結論に達した。なぜならば、三人の誰もが「よしんばそうであっても、それは信じたくない」という共通の認識を持っていたからである。
 渡辺氏は車の中で寝ており、エミリオ氏は彼女を知らないが故に話題に参加しないのは当たり前だとしても、VEの内田氏はどうしたのか。
 内田氏の頭の中はミルースカ嬢のことばかりだった、と私は推測する。
 内田氏に言い寄る例の女の子の名前は「ミルースカ」だと判明した。バタングランデ村に行き、仕事に空きが出来ると、彼はバタングランデ広場北西、ミルースカ嬢の家の前に、いそいそと出かけていく。そこに彼女は待っている。彼女は、我々の車が到着すると、家の前で一日中我々の仕事風景を見ているのだ。
 内田氏の手にはスペイン語会話の本がある。彼女の手には「日本語を話しましょう」というスペイン語で書かれた日本語教習本がある。彼女は一八歳。なかなか美人である。きっとバタングランデでも「ミルースカちゃんは村一番の別嬪だわ」と言われているであろう。
 しかし、いったい彼はこれからどうするのだ。もはや「別に何でもないっす」という段階を越えている。トラジェディなエンディングにでもされたら、今後の取材に支障がでる。だが、ハッピーなエンディングになるだろうか。それはそれで面白いが、現実問題として考えがたい。最良の選択でも、ハッピーなトゥービーコンティニュードくらいである。問題の先送りだ。泥沼である。
 夜九時半になって、バタングランデ村、土曜のダンスパーティを撮りに行ったところ、やってない。他の村で開催することに変わっていた。ペルーではこういうことが実にしばしば起きるそうである。我々はすごすごと帰った。必然的にダンスパーティは来週土曜日に取材することになる。我々のチクラヨ、バタングランデ最後の夜である。
 当然ミルースカ嬢も来るであろう。パーティは明け方近くまで続くそうだ。取材は遅くとも一一時に終わる。内田氏はそれからどうするだろうか。翌日にはリマに行き、さらに次の日の深夜に彼は日本に帰ってしまうのである。
 今回の取材で本当に一番面白いサブストーリーは「日本から来たアキオ(内田氏の下の名前)物語」だ。
 さて、本日は偶然チクラヨ滞在中だった文化庁長官のインタビューを除くと休みだった。長官は三日前のアポイントメントでインタビューを快諾していた。彼は義井氏の友人でもあり「日本人テレビクルーは本当に有り難い。本来、我々がやらなければならない記録の仕事をやってくれる。ブラボーブラボー」という調子だった。
 だが、長官は約束の時間に五〇分遅れてやってきて「飛行機に間に合わない」と言いながら去っていった。インタビューは改めて来週の月曜日にリマでやることになった。ペルーではこういうことは実にしばしば起こるのである。
 土肥氏がホテルの厨房を借りてすき焼きを作った。
 もし日本のホテルでそんな申し出をしたら、シェフが激怒し、その激怒を押し隠しつつ、客室係が「誠に申し訳ありませんが、当社の規則では、、、」ということになると思うが(だから、私も土肥氏も「いや、特に無理にとは言いませんよ、恐縮ながら、もしも、出来れば、そのような可能性がほんの少しあるのならば」という調子だった)、ところがエミリオ氏は例の調子で、OKOK、ダイジョブね、と交渉し、シェフも、OKOK、ダイジョブね、となったのだ。
 土肥氏の料理の腕前は、その手さばきを見るだけで、察するにあまりある。
 彼は既婚である。赤ん坊もいる。その写真をいつも持ち歩いている。料理が巧くて、好きだ。つまり理想的な旦那と言えるであろう。
 醤油味は実に旨い。山男、土肥氏は山での醤油の効用について、ひとしきり語った。要約すると、醤油をかければ、山で食えないものは無いのだそうだ。我々は、久しぶりの醤油味の旨さに、等しく納得した。
 昨日もバタングランデ村で夜九時半になるということで、我々は砂漠の中でカップラーメンを食べた。土肥氏が持ってきたバーナーが役に立った。
 ただし、そのバーナーは東京から持ってきた小型万能バーナーだ。チクラヨで買った例の巨大コンロではない。あれは一体何に使うつもりなのだろう。
 今日のすき焼きは、日本でいえば最高級の肉(安い)を分厚く切って作ったもので(この部分がすき焼きとは言いがたい)、そこにペルーの野菜が加わる、何とも贅沢なものだった。
 だが、旨い、贅沢は確かで、その上、更にこんなことを言うのもなんであるが、海外にいて食べたくなる和食とは、食べ慣れたシンプルな和食のことが多い。すき焼きに文句は全くないが、今、食べたいのはアジの開きであり、さんまの塩焼きであり、西日暮里駅(私の家の最寄り駅)の立ち食い蕎麦である。
 泊まっているガルサホテルには多くの動物が飼われている。犬が四、五頭(長い毛で目が隠れて見えない犬。でかい)、金剛インコ(これもでかい)、オカメインコ、ボタンインコ(それぞれ多数)、何という種類か分からない猿(舌と尻尾が長い)、豹の子供のような獰猛な山猫。ほとんどがプールサイドで寝そべっている。そしてアルパカの子供がいる。この、子アルパカが可愛らしい。
 子供とは言っても体長一メートル半はある。高さが、首を伸ばして私の肩くらいというところだ。
 おとなしい。人間が近づいても逃げないが、頭を撫でようとすると嫌がる。それでも頭に触ったり、首をつかんだり、耳を引っ張ったりしてると「キューッ」と小さな哀れな鳴き声をあげる。長い首の先に大きな目(黒目ばかり。直径およそ三センチ。ほぼ真円)のついた長い顔がついていて、鼻梁は長く、その先に兎のような鼻先と口がついている。こうやって書くと変な顔だ。だが何と言えばいいのか、その変さが良い。
 我々の取材車がいつも停まっているところに繋がれているので、朝、出る前に耳を引っ張り、首をくすぐり、夜、帰ってきたら、脇腹をくすぐり、鼻を小突く。「キューッ」と「メエー」の中間くらいの声を出して嫌がる。体はアルパカの毛に覆われている。贅沢な奴である。
 明日も又発掘だ。明日は島田教授と長話出来る機会がある。
 その機会を最大限に生かし、ラストの一週間をおくらねばならない。
 
 95/7/17

小川様、西野様、穴水様

 期限が迫ってきて「焦るぜ」の日と「何とかなるさ」の日が交互にやってきます。躁鬱病のごとくです。

 島田教授の発掘思い出話、その他のロングインタビューを撮った。
 教授は質問に答える前に、必ず、例外なく「そうですねえ」と言う。教授の内なる儀式だ。
 さらに、教授とは別に、バタングランデ村に生きる大人たちの「本音に迫る映像」というヤツが撮れた。
 テレビカメラに集まった大人達の中に二人、日本に行ったことがあるという人間がいた。
「俺は日本に行ったよ。『ダイイチパン』の仕事だ。一日一四時間働いて三五〇〇ドル月に稼いだ。二年間お金を貯めてここに帰ってきたんだ。
 東京にいる間に上野の博物館に『シカン展』を見に行ったよ。懐かしかったからさ。ドクトール島田とバタングランデ村は日本でも有名なんだって誇りに思ったよ。
 入場料が二〇〇〇円もした。たくさんのお客さんにびっくりしたよ。あれで日本政府は儲かったんだろ(彼は主催がTBSだとは知らない)。だけどな、ディレクターさん、ここを見てくれよ。
 あんたもこのバタングランデに結構いるじゃないか。見たろう、ここには電気すら届いてないんだぜ。電線はあるけど発電機の燃料がないんだ。サトウキビ以外に仕事もないんだ。そのサトウキビだって幾らの儲けにもなりゃあしない。
 日本政府はあの『シカン展』の儲けの何パーセントかをバタンにまわしてくれてもいいじゃないか。何で俺たちには何も残らないんだ。
 昔、インカ帝国も俺たちから黄金をいっぱい持っていった。だけど、俺達のご先祖様はそのままだった。
 今も外国人が発掘して、それをリマに持ってっちまう。結局ペルー政府のものになってしまうんだ。俺たちは貧しいままだ。
 ドクトール島田は尊敬している。俺たちの偉大なご先祖様を世界中に紹介してくれたんだからな。だけど俺たちは相変わらずだ。これは何とかならんのか」
 印象的な意見であった。

 西野氏への回答
1 神通力は解けてしまったのですね。しかし、なかなか良いグラフだと思います。
2 了解しました。
3 分かっております。
4 レーダー探査は渡辺氏によると様々な成果を上げています。前回の補完部分はこれといって言うべきところはないのですが、プラットホームの壁からは金属反応が出ています。「宝探しの印象」と「盗掘者」を避けるために、言及は出来ませんがホームの下に何物かがあるのは確かなようです。ただし島田教授に今期中に掘る意思は無いようです。
 さらに最近は神殿壁にも手を出しています。神殿壁は、現状は下の壁よりも大きく後退しているために、地面探査のような様相になります。四メートル四方の空洞状のような物が見つかりました。島田教授の許可があれば、我々が掘りたいくらいです。
 しかし「墓があるから掘るのではなく、研究課題があるから、それを解くために墓を掘るのだ」が島田教授の信念ですから、教授は掘らないでしょう。
 渡辺氏の作業は次期に生きようか、というところです。
5 二メートル掘り進むのは明日か明後日でしょう。西の墓はまだその断片すら姿を現していません。穴は迷走しています。北はアドベの壁が出ました。水平の壁で恐らく墓の蓋ではないかと思われます。出土品として上腕部の人骨が一つ。ただし洪水の影響でどこから流れ着いたのか分からないとのこと。アドベが出たことによって発掘のスピードは格段に下がりました。しかし、北については私たちが帰るまでに何らかは出る、と教授は断言していますから、期待できないことはないでしょう。
6 了解しました。下野氏とのことはリマで詰めます。
7 了解しました。我々は「再びやってくる」との思いを胸に予定通り帰るつもりです。

*これらの答えが何を意味していたのか、今となっては分からないことが多い。西野氏からのファクシミリを紛失してしまったので二、三などはさっぱり見当がつかない。恐らくは予算をあまり使うな、というようなことではないかと思われる。
 一は「スペースJ」の視聴率グラフをファクシミリで送ってもらっての感想だろう。常時三〇パーセント近くを記録していた「スペースJ」も、この時期、ようやく一七、八パーセントに落ちつきつつあったのだ。
 で、注目すべきは六、七だ。
 これは、ま、今回はしようがないわいな、という東京側の(小川、西野両氏の)結論である。もともと一ヶ月そこらで発掘取材の目途を立てろという方が変で、そんなことは最初から分かっていた、と書いてあったと思う。
 何じゃそれは、と思いつつも、私は少々安心した。
 私は今現在までと、残された一週間ちょっとの発掘(これまでの状態からスローペースは予想できた)の間に撮っただけで、何らかの番組をでっち上げないといけないのかと、恐れていたのだ。
 西野氏からの指令はこうだった。
 疋田は予定通り一カ月で東京に帰れ。
 その後のカメラ報告は日本電波ニュースの下野カメラマンに、週に二日程度で頼め。 
 その下野カメラマンが撮ったVTRを東京に送る手段を確保せよ。
 めぼしい発掘品が出るのは、小川、西野両氏の経験上、今から一カ月はかかるだろう。その間の下野VTRを東京で検討し、その結果如何で、二度目の疋田派遣としよう。
 てなことだった。
 当時の私は、これで本当に気が楽になった。

 95/7/18
 
 北側の墓の底が綺麗にならされた。キャタピラの跡が見つかったからである。盗掘者はここまで掘っていたのだ。
 そして、同時に分かったことが一つ。それは、今日が本当のスタートだということだ。つけ加えて分かった。遺跡の中の何物かは、いよいよ今回の期間内に出ることはない。
 西側の穴はいぜんとして迷走を続けている。とにかく墓の切り口が見つからないのだ。教授が自信満々に語った「墓のあるところ」を掘り下げてはいるのだが、今のところは盗掘者の掻き回した、その跡を掘り返しているだけだ。
 盗掘者跡とは何か。少々説明がいる。
 そもそもロロ神殿に島田教授が着目したのは、盗掘者たちからの情報が大きかった。教授は一七年前から、地元の元盗掘者たちに対して、熱心なインタビューを続けてきた。
 そしてその結果のロロ神殿発掘という側面が大きいのだ。
 ペルー北部、中でもバタングランデ周辺は、掘ると黄金製品が出る地域として、地元では(あくまで地元だけでは)昔から有名だった。そして当然のように、多くの盗掘者たちを生んだ。
 かつてバタングランデに君臨した地主などは、その盗掘者の親玉のようなものだったという。オウリッチという名前のその地主は、使用人を多数雇い、集団的盗掘作業を行っていたのだ。
 かつてバタングランデでは、黄金をもたらす盗掘こそが最大の産業と見なされた時代さえあった。何だか舟戸与一氏の小説「山猫の夏」を思い出す。
 盗掘者たちは、半ば公然と、だが、基本的には違法行為として、バタングランデ周辺を掘り返し続けた。その闇雲に掘った盗掘の跡は、信じ難いことに一〇万にも達する。だから、ヘリコプターで飛んでこの地域を見てみると、バタングランデ周辺の、ある地域は穴ぼこだらけの、まるでクレーターが密集する月の表面のように見える。
 闇雲にしても、一〇万も掘り返せば、盗掘者たちも経験的に何かを学ぶ。
 黄金が出やすいところと出にくいところ、その目印は、アドベで出来たロロ神殿をはじめとする神殿群だった。
 神殿のどの部分を掘ればよいか、それは墓の深さも問題になってくるから、大規模な発掘を行わない限り、本当のところは見えてこない。だが、彼らはブルドーザーを使って掘ろうとさえした。キャタピラ跡とはその跡だ。
 だが、彼らは手っ取り早く黄金を手に入れたいから、ある程度掘って出なかったら諦めてしまう。
 教授はシカン貴族の墓はもっと深いと考えていた。
 教授はかつて、このロロ神殿に関して、西の墓の盗掘跡を見たのだという。その際、この程度の盗掘の深さだったら、まだ墓の最底部には達していない、盗掘者は途中で諦めたと睨んだのだ。
 そして、それから年が過ぎ、教授の記憶も少しく曖昧になり、洪水が起きて、盗掘跡も何もぐちゃぐちゃになってしまった。
 大まかな位置は覚えている。だが洪水の後、それが正確にどこなのかは誰にも分からなくなってしまったのだ。
 西の墓とはそのぐちゃぐちゃになった部分を掘っているのだ。
 教授は「まだ今の時点では、何の価値もない穴掘りですよ」と言っている。それもその筈、盗掘者の掘った跡をクリアして、古代の掘り跡をまず見つけなければ、何も始まらないのだ。
 昨日から今日にかけて、北の墓に関してはそれがようやくクリアできたというところだ。だが、元々、北の墓はおまけのようなもので、盗掘者にしても「まあ掘ってみるか」という程度に過ぎなかったのだと思う。
 だが、西の墓はシチュエーションからして違う。プラットフォームが神殿に接続する付け根の部分、黄金が出るポイントの一つだ。盗掘者たちにしても気合いが入ったろう。
 教授は、その盗掘者の掘り跡がまだ墓の本体には達していないと見ている。だが、盗掘者たちは一体どれだけ掘ったのか。二メートルか、五メートル下までか、一〇メートル下までなのか。
 いずれにせよ、核心の西の墓の発掘は、そのスタート地点に至るまでにまだまだかかるだろう。

 エクトル氏の家に又行って来た。オリビア嬢の従兄弟たちがたくさん遊びに来ていた。
「オリビアは中学校を卒業したらチクラヨの町の学校に行かせる」エクトル氏はそう語った。
 エクトル氏の家には電灯もない。テレビもない。時計もない。何もない。
 ついでに言うと屋根がある部屋は二部屋しかない。
 
 95/7/19

 北の墓のキャタピラ跡の下から、アドベ煉瓦が出た。
 予想通り、ここから下は盗掘者に荒らされていないのだ。北の墓主任であるラファエロ氏が、俄然張り切りだした。
 西の墓は相変わらずの迷走。墓の切り口は見えてこない。
 今朝、チクラヨから発掘現場に至る途中のサランダ村で、山羊を解体しているところを見た。聞けば、サランダで山羊を買って、チクラヨの市場に持っていこうとしたのだが、山羊をバイクの荷台にくくりつける際に、足の骨を折ってしまったのだという。だから、こんなところで肉と皮に解体しているのだということだ。
 今は死体となってしまった山羊の首に縄をくくりつけて、木にぶら下げる。そしてナイフ一つで、ずるりずるりと皮を剥ぎ、肉を削いでいく。
 勿論グロテスクな風景には違いないが、その作業の巧みさは見事なものだと思う。山羊の冥福は祈るが、人間とはこの作業なくしては生きられない動物ではある。
 ナイフを振るっているのは一人、そばにその一人の子分だか弟だか息子だかの男がいて、山羊の足を押さえながら親分の作業を見守っている。
 ここに住む男たちはこの程度の作業は出来ないと男として見なされないのだ。
 だが、それはむしろ自然なことだと思う。こういうことが、生きるということの現実感なのかも知れない。
 生きている、ということの現実感は、死という現実を目の当たりにすることによって初めて得られるものなのだろう。そういう意味では日本で生きるということは、その種の現実感を欠くということなのかも知れない。そして実際に欠けている。
 生き物を殺すのは嫌なことだ。だが、我々はそうしなくては、生きていけない。
 以前、宮崎県の南部の、とんでもない田舎に私は住んでいた。
 中学校二年生頃だっただろうか、私と、その友達と、家から六〇キロくらい離れた山奥のキャンプ場にテントを張ったことがあった。キャンプ場とは言っても、アウトドアブームもなかったし、当時の宮崎県だったし、何もなかった。ただ、キャンプ場との看板があるな、という程度だった。 
 「文明がなくても生きていける」「今ここで、人類が破滅しても、生き延びていける」、そういう人間になりたいと、そんな意識が、我々ガキの心の中にはあった。そのための修行をしているのだと、我々ガキどもは、思っていた。
 間違いなく、当時流行の漫画に影響されたのだった。
 最初の泊まった日の夕食は、川で釣らなければいけなかった。
 漫画の主人公になりきっていた我々には望むところだった。望むところも何も、漫画に毒されていた我々ガキ二人が自らそうしたのだ。当たり前だ。
 当たり前だから、我々は釣竿も持ってきていた。
 当時の発展途上県、宮崎では、魚は素人の中学生の手でもあっさりと釣れた。
 だが、それを食べられる状態にするのは、易しくなかった。魚はまだ、生きていた。
 私は、生きている魚をつかんで、口から竹ひごを通した。
 横隔膜(と言うのかどうか)を竹ひごが通るとき、厭な感覚が、手に伝わった。
 魚は激痛に(恐らく)身を震わせた。
 しばらく死ななかった。竹ひごを焚き火の横に突き立て、身体がだんだん茶色に染まろうとしているのに、それでも魚は思い出したように、身体を捻った。
 厭だ厭だ、と思った。漫画の主人公も案外、厭だなと思った。
 今でも、竹ひごを通したその感覚は私の手に残っている。
 甘いのだ。結局。
 私はそれを克服できないでいる。それを克服することこそが、人間と自然と、その摂理をより高いレベルで知ることだと分かっていつつも。
 山羊の皮を剥ぐ、ペルー人を見ながら、凄いな、と思う反面、やだな、とも思う。だが後者は明らかに間違っている。
 文明はそういう種類の厭なことを極力排除することに精力を注ぎ込んできた。その結果、生きるということの現実感をなくしていったのだ。

 95/7/20

 第一期取材もいよいよ終盤に入ってきた、と先ほどフロントで受け取った西野氏よりのファクシミリに書いてあったが、実は終盤どころではなくもう後がない。明日からは何とか今期のつじつまを合わせるための取材である。
 発掘は相変わらずである。
 北の墓はラファエロ氏が熱心に図を描きメモをとっている。
 西の墓は迷走中。変わらず。
 ちっとも変化のない現場で、元気なのは地中レーダー技師の渡辺氏だ。北と西のトレンチとは全く別のところに地中レーダーをかけ、島田教授や私たちに「ここからは絶対に金が出るぜ」と言う。
 渡辺氏が言うところの金が出る地点は、もう五カ所を数えた。
 地中レーダーに反応があるのだ。さあ掘れ、やれ掘れ、というのが渡辺氏だ。
 私が考古学者だったら、そう、やはり、多分掘るな。
 だが、真面目な島田教授は、そういったことを嫌うのだ。
「金が出るから掘るとか、墓があるから掘るとか、そういう態度は考古学ではありません。考古学は、あくまで科学的な検証の元に、ある仮説を立て、それを証明するためにフィールドワークを行う、つまり掘るものなのです」
 これが教授の信念なのだ。彼にとっては何かが出そうだから滅多矢鱈と掘る、などというのは言語道断なのである。その結果、黄金が出ようと、ダイヤモンドが出ようと、古代の王が出ようと、地底怪獣モグラーが出ようとである。
 渡辺氏は教授の要請でここにやってきた。だが、教授にとっては地中レーダーの意味は、自らのフィールドワークの補強である。
 しかし一方、渡辺氏にとっては地中レーダーこそ発掘の根拠なのだ。日本でも、数々の発掘に立ち会ってきた渡辺氏には、自信があるのだ。
「ここ掘れば絶対出るのになあ」
 渡辺氏は、ロロ神殿の北東にあるコロラド丘陵の上に腰掛けて言った。
 少々不満そうだった。
 帰りの車の中で日本のことを考えているとすぐに眠ってしまう。
 すぐにきくエアコン、土埃の入って来ない清潔なマイカー、舗装道路、明るい室内灯(このホテルの私の部屋はメインの蛍光灯が点かない。むなしく天井にあるのみ)、そのまま飲める水道、いつでも冷たい冷蔵庫、かじることの出来る氷、安定したお湯の供給(安定していないから、火傷しそうになったり、冷たいっとなったりのシャワーだ。このホテルのは)、電気洗濯機、安定した電力供給(特に金曜日には電灯の明かりがフラフラと明るくなったり暗くなったりを繰り返す)、電子レンジ、おいしいコーヒー、ネットワークにいつでも繋がるパソコン、24時間営業のコンビニエンスストア、などなど。
 何とまあ快適な生活であることか。狭いだの高いだの言ってはいられない。

*日本に帰ってくるとやはり、言う。

 現在、現地からガルサホテルに帰ってきたばかりで、一六分後に夕食を食べに行く。明日からの四日間の計画は後ほど練るとして、これからシャワーを浴びる。

 95/7/23

 二日酔いであった。午前、午後、ともに発掘取材。ともに最低。
 発掘ではなく私がである。
 ペルーのビールは旨いものが多い。こちらで最もメジャーなのが「クリスタル」と「ピルセン」そして「クスケーニャ」で、この三つが全国区。リマ市でもチクラヨ市でも、あらゆる店にこれらの三つのビールの看板が掲げてある。味は東南アジアのビールに似ている。中でも似ているのが、タイの「シンハビール・ゴールド」だと思った。なかなか美味しい。
 だが、私が最も気に入っているのは、ここの地ビール「ガルサ・リアル」だ。
 香ばしいテイストの、ちょっと軽いビールである。バタングランデから汗だくで帰ってきた後には、これ以上のものは無いと思う。
 あのスーパードライの味に、少々似ている。スーパードライについては、いわゆる食通を称する人が「美味しくないよ」というから、そんなものかいなと思ったりもするが、私は好きだ。私は食通でないから。
 そして多くの人が食通ではない日本という国で、かのビール会社が劇的にシェアをアップしたことについて、私は別段、異を唱えるものではない。
 スーパードライは日本に限らず、北米でも売れているようだった。コンビニエンスストアに行くと、バドワイザーやミラーなどに並んで、「Kirin」と「Karakuchi(スーパードライのアメリカ名)」が必ず置いてあった。
 ガルサ・リアルが売れるチクラヨでも、スーパードライは受けるかも知れない。恐らくその値段はガルサの五倍以上になるだろうが。
 こちらのビールは安いのだ。小瓶一本、三〇円程度しかしない。
 恐れ入るのは、ビールを頼むと、店員から「フリオ?」と聞かれることだ。「冷たいのがいいのか?」という意味だ。
 当たり前だ、と思うのは先進工業国の発想で、まだ冷蔵庫が一般的に普及していないこの国では、常温のビールを好む人たちも多いのだ。
 本多勝一氏によると、真に旨いビールは常温の方が旨いそうである。そういう見方もあるのかも知れない。だが、食通でない私には分からぬ。だいたい、常温だと口の中が泡だらけになってしまっていけない。
 ただ、私はこう思う。誰にとっても、飲み慣れたものが一番なのであろう。
 チクラヨには「ソレント」という名前のステーキ屋があって、ここのステーキが、涙が出るほど旨い。おまけにここで出されるビールはキンキンに冷えている。大型の業務用冷蔵庫があるのだ。チクラヨでは珍しいことだ。
 我々はもう三回この店に来た。
 ソレントはどの旅行ガイドブックにも載っていない。「地球の歩き方」によるとチクラヨは「観光すべきところはどこにもない」ところだそうだから(通常の意味では私もそれを否定はしない)、載せても意味がないのかも知れぬ。良いことだ。この店の前に日本人旅行者が行列を作るなどという、凄まじい光景は見たくない。
 エミリオ氏は例によってニコニコしながら「日本人はここーに連れて来ると、みーんな喜ぶね」と言っていた。

*ちょっと注釈を加えると、何だか私は「地球の歩き方」シリーズを批判したい人間のように聞こえるが、実はそんなつもりは全くない。それどころか、私はかのシリーズの大ファンの一人だ。二〇代の前半、あれを持ってアジア諸国を巡った。
 情報が不確かなものが多いとか、あれのせいで大学生が海外でトラブルに巻き込まれたりする、とかの批判も沢山あるようだが、私はそれはしようがないではないか、と思っている。
 あの手の本は、あくまで参考に留めればよいのだ。
 元来が、日本でない。外国なのである。それも途上国だったりするのだ。どのようにして、国内版のようなガイドブックが作れるというのであろう。
 そもそもがガイドブックに書いてあることを鵜呑みにするという姿勢が間違っているのである。
 旅の先輩がこう言おうと、どう言おうと、どちらにしても、外国の列車は予定時間通りには来やしないのである。在る筈の快適な旅館も、前夜にテロにあっているかも知れないのだ。気のいい筈の支配人が、悪人に騙されてから「改心」しているかも知れないのだ。
 だから、ソレントが本当に旨いステーキ屋かどうか、私は保証はしない。私と義井氏とエミリオ氏と渡辺氏と土肥氏と内田氏が、たまたまひどい味音痴だったのかも知れない。私に関しては「かもしれぬ」ではなく、本当にそうなのであるが。 

 発掘は進まず、今日は地元の看護学校の卒業式の取材をした。
 二〇人前後の看護婦の卵たちに、ナースバッヂというのか、看護婦の証明のバッヂが授与される。島田教授も同席した。
 最高の貴賓席で、記念撮影では教授は真ん中に座らされた。考古学と看護婦では、何の関連性もないと思われるのだが、つまりは地元の一番の名士、ということなのだろう。
 卒業式なのに、日本のような厳粛な雰囲気は全くない。
 バッヂの授与が終わると、ダンスパーティになった。例によって哀愁の大音量である。耳が痛くなる。
 教授も踊った。教授はアメリカ育ちだから、一応のダンスはこなせる。だが、あまりうまいとは思えない。スピルバーグの「バックトゥザフューチャー」に出てくる主人公の父親、ジョージ・マクフライのような風情だ。
 看護婦の資格を取って、だが、ここの娘たちには実はあまり就職先がない。
 それぞれに聞くと、チクラヨで看護婦をやりたいのに、でもコネクションが無いから、という答えが目立った。
 だんだん気づいてきたが、バタングランデ村の最高の問題は、職が無い、ということに尽きる。それは女も男もだ。
 村の中心のロータリーで、手持ち無沙汰にいる人々が多いのはそこだ。
 産業はサトウキビのみ。だが、それとて、そんなにお金になるものではない。
 もしも日本の何らかの工場が進出する、などということになれば、バタングランデ村は狂喜するだろう。
 ただ、それがどんな結果をもたらすかは別問題ではあるが。
 
 95/7/22

 土曜日。朝四時半にホテルを出た。発掘現場の夜明けを撮り、作業員たちが発掘現場に来るのを待ち受けて撮った。
 二五人の作業員たちが六時半を過ぎる頃から、ちらほらと集まってくる。発掘開始は八時からなのにも関わらず。
 この季節、この地域の朝は、ひんやりと乾いていて本当に気持ちがいいから、朝の散歩、そのまま仕事、というところなのだろう。
 ある者は驢馬に乗り、ある者は自転車で来る。
 自転車の方がお洒落なのだ。だが、道は凸凹の土の道だから、自転車は難儀だろうなと思う。驢馬の方がいいのに。
 朝日とともに撮る、こうした出勤風景などは、なるだけ美しく、かつ、どの場面ででも使えるようにしておく。
 後でVTRを編集する際に、都合が良いようにである。
 今日は発掘作業が始まってちょうど二週間目にあたるのだが、この朝のカットは必ずしも厳密に二週間目、という場面で使うわけではないのだ。
「そしてまた○○日が過ぎた」
 こういうナレーション原稿を書くときに、そのバックの映像となる。
 ニュースストーリーの流れの上では、例えば三週間目かも知れないし、二カ月目かも知れない。場面転換の為のカットだ。
 厳密にいえば、「嘘」になるとも言える。
 だが、私はこういうことは「テクニック」の中に入ると思っている。事実のねじ曲げは絶対におかしいが、こうした悪意のないカットの使用に問題は無かろうと思う。
 こういうところまで厳密さを求め、例えば、毎日四時半に出発し、毎日同じような出勤風景を撮るのは、何より労力の無駄だ。
 まあ、それもケースバイケースとも言える側面もあって、この朝日と出勤風景に特別な意味がある場合はこの限りにあらずではある。
 渡辺氏はコロラド丘陵で、レーダー探査を続けている。渡辺氏についたペルー人作業員二人がセンサーを引っ張っている。
 センサーは一メートル四方くらいの機械で、橇に乗せてロープで地面を引きずる。渡辺氏はコンピューターとモニターの前に座って「そこだそこだ」とか「もっと速く」などと大声を出している。
 渡辺氏の凄いところは、この二人のペルー人と平気で会話が出来るところだ。無論、渡辺氏はスペイン語なんかこれっぽっちも出来やしない。
 だが、身ぶりと気合いと大声で、意味を強引に通す。全てが日本語。
 渡辺氏は強い。
 発掘は相変わらずだ。昨日よりは三〇センチほど深くなったかなという程度。まあ、もう焦っても仕様がない。
 同じく弊社ではあるが、赤城山発掘シリーズがちょっと羨ましくなってくる。
 あれは「TBSが掘る」というプロジェクトだから、この手が駄目ならあの手とスリリングに話を展開できる。
 だが、シカンにおいての我々の仕事は、あくまで学術的発掘の記録だから、こちらから手を出すわけにはいかないのだ。
 今日は二度目の給料日だった。
 まだ墓の切り口さえ見えない西のトレンチの横で、二五人の作業員たちは給料を受け取った。
 夕刻、発掘現場からバタングランデ村の中心地(例のロータリー近く)に移動し、バタングランデ住民の結婚式を撮った。
 新婦は一七歳。信じ難い。でかい。迫力のおばさんに見える。強烈。新郎は痩せた男だった。交尾が終わると食べられてしまうというようなタイプだ。
 けれども結婚式自体は厳粛であった。
 カトリック式で、式場の十字架が本当に十字架の意味を持っている。聖水を振りかける。牧師が説教をする。当たり前か。日本の方が変なのだ。
 だが、日本の方が変と言い切れない部分もあるぞ。義井氏が訳してくれたのだが、牧師の説教の内容は、殆ど「コンドームを使ってはいけない、子は神が授けてくれる運命の子で云々」というものに終始していたのだそうだ。流石はカトリック。そして、相当、直接的だ。席にはお互いのご両親もいる。これがこの地では普通なのか。だとしたら、文句を付ける筋合いもないのであるが。
 その後、披露宴になった。
 披露宴とは、予想通り、ダンスパーティのことだった。そして、これまた予想通りの哀愁の大音量だ。
 私と義井氏と土肥カメラマンは怒鳴り合いのように会話しなければならなかった。疲れる。
 列席者にインタビューを試みるが、疋田が怒鳴るように質問し、エミリオ氏が怒鳴るように通訳し、列席者が怒鳴るように答える。三人目のインタビューで、もう体力の限界を感じた。
 更に、夜も更け、バタングランデ村のディスコパーティを撮った。エミリオ氏がやめた方がいいと言った例のヤツである。
 午後一〇時に開場。村中の不良少年と不良少女たちが「どこにこんなに隠れていたんだ」というくらいに集まった(別にディスコで踊ることが不良的行為だとは思わないが、そこは古い時代の日本と同じなのだ。エミリオ氏は「日本語の、エー、何ですか、悪い行いの、そうそう、フリョーですね、フリョー」と説明した)。
 会場はバタングランデ中学校のサッカーグラウンドだ。オープンエア・ディスコティックである。
 当然、予想した通りの哀愁の巨大音量だ。今までの大音量の中で最もヴォリュームがでかい。何ゆえの所業か、これは。
 野外だから、バタングランデ村中に、音は轟きわたっている。住民はこの中で眠れるのだろうか、と思う。だが、文句は出ないのだそうだ。
 PAの機材は台湾製の本格的なものだ。そんなPAより、他に買うものはある筈だろうと思う。そのPAに、発電機を回して電力を供給する。その発電機のエンジン音が全く聞こえない。それだけスピーカーからの音が大きいのだ。
 頭がくらくらする。
 さて、くらくらしながらも、ディスコの風景を見てると、それはそれで面白かった。
 この国でもやはり不良少女よりは不良少年の方が多いらしく、向かい合わせで踊る相手を見つけられない少年たちが、会場の隅の方に溜まっていた。踊っている連中を羨ましそうに眺めている。
 踊っている連中に較べて、やはり、もてそうに見えない。溜まっている連中は、やはり溜まっているだけの理由があるのだな、と見ているだけで思えてきて、何やら面白哀しい。ビール瓶を投げて、キャッチボールをしたりしている。
 エミリオ氏が言うには喧嘩騒ぎになる原因は、必ず女関連だそうだ。つまり取り合いとなるのである。
 なるほどと思いつつ、ふと見ると、北の墓発掘主任のラファエロ氏がやってきた。
 発掘団には一人だけ女子学生がいて、その女性、ダイアナ嬢と連れだっての登場だ。
 義井氏が教えてくれた。
 ラファエロ氏とダイアナ嬢はかつて恋人同士だったことがあるらしい。その後、二人は別れ、今ではそれぞれに別の相手がいるのだそうだ。
 その二人が、発掘現場近くの村で、手を取り合って踊る。
 手を取り合ったり、キスをしたりすることについて、日本のような意味がある訳ではないのだろうが、それでも味わい深い。
 そう思うと、ここに集まったバタンの若衆たちも、様々な愛憎の事情があるように思えてくる。あっちのカップルはどうだ、こっちはどうだ、とね。それぞれに勝手なストーリーを作ってしまう。
 だが、音量は巨大。頭くらくら。尤も彼らにとってはそうではないのかも知れないけれど。
 椎名誠風に言うと、愛と別れのバタングランデの夜は、こうして哀愁の巨大音量とともに更けゆくのだ。
「ヒキータさん、きり無いよ。みんな今日は朝の四時頃まで踊るね。そのうち喧嘩になるね」
 エミリオ氏である。
 結局、一二時に帰ることにした。
 その間、ずっと待ってるしかない渡辺氏は不機嫌だった。バタングランデとチクラヨを結ぶバス便は、あることはあるのだが、もとより時間は不規則だし、そもそもこんな夜中に出る便はない。彼は我々と行動を共にしなくてはならない運命にあるのだ。申し訳なかった。

 95/7/23

 とりあえず今回の取材は、発掘が始まるまでの一部始終と、発掘が始まってしばらくの様子だった。
 今日はこの町を離れる日だ。
 朝、教授と我々と食事をした。今日は発掘は休みだから、教授はチクラヨのホテルにいるのだ。ガルサホテルと並ぶ、チクラヨ市屈指の「高級ホテル」、インカホテルに泊まっているのだそうだ。
 我々は、チクラヨとバタングランデとを毎日往復しているが、彼の場合、通常はバタングランデの宿舎に泊まっている。バタングランデの宿舎は、電気がなく、発電機を回している。灯油が勿体ないので、電灯を点けるのは夜の三時間だけだ。それ以外は蝋燭なのだ。シャワーなどは勿論、無い。だから教授は週に一度、チクラヨのホテルにやってきて、シャワーを浴びたり、洗濯をしたり、論文のコピーをとったりと、そういうことをするのだ。
 大変だ。
 教授は淡々と、食べ物の話をした。チクラヨの旨い店は皆知っている、と言っていた。彼は実はグルメなのだ。チキンラーメンが好きなことは置いておくとして。
 バタングランデ村にモーリおばさんという太ったおばさんがいる。彼女が発掘団の一切の食事の世話をするのだが、このおばさんは、教授が「料理のマエストロである」と認定して連れてきた人だ。我々も食べてみたことがあるが、実際に旨い。
 教授が書いた、シカン東の墓に到るまでの発掘記(「黄金の都、シカンを掘る」朝日新聞社刊)の中にも、この、モーリおばさんは登場する。「寸胴を抱いた女神」と表現されていた。
 教授はその本の中に、腹が空いては発掘は出来ない、とか、旨いものを食べなければ発掘の意欲が湧かないだとか、そういうことを結構書いている。
 真面目一方の教授の本の中で、唯一、微笑を誘う場面だ。
 大切なことである。
 教授はチクラヨの色々な店について、解説を加えた。渡辺氏は旨い店について、いちいちメモをとった。渡辺氏も我々と同じく、再びやって来るつもりなのだ。
 私は「ソレントはどうですか?」と聞いてみた。
「あそこは確かに美味しいね」とのことであった。
 今日の朝食はガルサホテルの中のレストランだったので、アメリカ式の食事だったが、チクラヨには無論、ペルー料理を出す店が多数ある。
 ペルー料理の代表といえば、何といっても「セビッチェ」だ。
 セビッチェとは、酢漬けのことで、慣れるまでは酸っぱ過ぎて辛過ぎる料理だ。中身は様々。最もポピュラーなのが、平目のセビッチェで、他にも蟹、貝、海老、なんだかよく分からない魚など多岐にわたる。まあ、総じて魚介類だ。全て生である。
 この国には、酢漬けとはいえ、魚を生で食べる風習があるのだ。日本に似ている。良い漁場が近くにあるということと無関係ではあるまい。
 黒潮と親潮が出会う日本近海と同じく、ここにはフンボルト海流と南太平洋海流が出会う潮目があるのだ。世界の三大漁場の二つがペルーと日本の両国にある。
 ついでに言うと、この国の最もポピュラーな穀類は米だ。
 あろうことか、主食という概念すらある。あらゆる食事に、日本のように炊いた米が出てくる。
 何となれば、それは八〇年前に、日本人移民が伝えたのだ。その時から、この国の食文化に米が根付いた。だから、我々のような輩は、この国の食事に非常に馴染みやすい。
 ただし、米の種類はインディカ米である。タイなどで作られる、細長い米だ。パラパラしている。
 義井氏によると、ジャポニカ米もあるにはあるが、人気がないのだそうだ。そういえば、私もリマの日本料理屋以外で、ジャポニカ米を見たことがない。ジャポニカ米は作るのが難しいのか、気候に合わないのか、そういうことかなと思えば、そうではなかった。
 決して、栽培の難易や値段の問題ではないのだそうだ。
 最初に伝わったのはジャポニカ米だった。
 日本人が伝えた米だったが、世界にはもっと旨い米があるぞ、とペルー人たちは何かの弾みで知ったのだろう。で、この国には最終的にインディカ米の方が根付いたのだ。
 以前、九四年に日本で米不足が起き、タイから米を輸入するという事態に陥ったことがある。タイの米は不味いとか、やっぱり米は日本に限るとか、タイ米は捨てるとか、醜い発言、事件が相次いだが、馬鹿を言っては困るのだ。
 日本の米に国際競争力は全くない。それは値段が高すぎる、などの問題ではなく、有り体に言って、日本の米は「不味い」からなのだ。こんなにねばねばした米は食えたものではないのである。
 私だって、確かに日本の米は好きだ。普通に日本で食べるご飯は、ジャポニカ米に越したことはない。だが、インディカ米には、ジャポニカ米と違う旨さがあることも事実だ。
 要するに慣れに過ぎないのだ。
 九四年のあの時期、「不味い」と言ってタイ米を投げ捨てた、その深層の心理に「俺たちゃあ、豊かな日本人だ。こんな未開の連中の米なんぞ食えるかい」という意識がなかったと言えるだろうか。そして、そんな意識を私は卑しいと思う。
 九四年、ちょうどあの時期、私は一カ月ほどタイとミャンマーにいた。
 ミャンマー軍事政権の取材だったが、時期が時期だけに、東京からの要請で、タイの米の輸出の風景も撮った。タイの「農業組合長」が、私のインタビューに対して、次のように答えた。
「これをきっかけに、我々は日本への輸出の道を開きたいと思っているんだよ。何といっても、日本は世界最大の米のマーケットだからね。
 我々は、日本の皆さんに、タイの米の美味しさを知ってもらいたいと思っている。だから、日本に輸出する米は、最高級のものばかりだ。『ホンマリ』と言うんだよ。三年前に品種改良されたものだ。我々はこの米の味に自信を持っている。日本にも美味しい米があるらしいね。確か、コシヒカリとか言ったかな。私は食べたことがないけれど。
 だけど、我々のホンマリはコシヒカリにだって負けないと思うよ」
 タイの組合長は赤ら顔で笑った。
 日本人にはその米の美味しさが理解できなかった。理解できないどころか、不遜にも、食わず嫌いの上にただ単に、不味いと言ってのけた。
 日本人という集団が、外の世界を知らない田舎ものの集団だということを語って余りある事件だったと思う。それは悲しいことだ。
 アユタヤの店で食べたお粥の、あの優しい味を私は忘れない。さっぱりした中に馥郁とした旨味をほのかに漂わすあの味は、ジャポニカ米では再現できないだろう。
 ちなみにペルーの飯だって旨い。インディカ米ではあるが。
 ところで、セビッチェの具で最もポピュラーなのが平目だとは先ほど書いたが、この平目が、ぶつ切りにされ、酢の中に山盛りにな